かぜはく電脳曼荼羅

玄秘学、食文化、ゲーム、生と死に非常な関心があります。

阪神大ワイン祭

半神がなぜ生まれるか。根源的な話をすれば、それは神とそれ以外が交わることによって神の血とそれ以外の血を受け継いだ――「異類婚姻」、あるいはこの場合は、さらに限定して「神婚」と呼ばれることもある――子孫が誕生するからである。

日本のみならず、数多くの神話体系において、神婚説話は、英雄の誕生と、神話のターニングポイントを意味する。

神々から英雄へと主人公が譲られ、それが各氏族や国家の起源となるのである。

 

この記事ではそういった神婚説話と英雄の誕生、その先にある共同体の形成について、比較神話学と文化人類学という二つの側面から明らかにしていきたいと思う。

 

一、阪神について

阪神阪神電気鉄道が所有するデパートである。

ゴールデンウィークは大阪にある阪神で大ワイン祭が開催されるので、呑兵衛の我々はおっとり刀で駆けつけた。

なんとこのイベント、四十を越すブースがあり、約八百ものワインがフリーテイスティング出来る恐ろしいイベントなのだ!!!

要はタダで飲み放題なのだ!!!!!!!

 

このイベントで発見したことは幾つかある。

 

僕はこれまで、ブルゴーニュのワインを軟弱で味気ない、マンモーニの飲み物だと思っておった!!!

実際試飲したワインの中には、高価なブルゴーニュワインであっても物足りねえと感じることも多かった!

しかし全房発酵(発酵の時葡萄の種も茎も全部ぶち込む)のブルゴーニュワインに関してはその限りではないということが判ったのであった!

 

白を勉強しにいったのに結局ローヌのワインばっかり飲んでる奴がいたというし、昼前からちょいちょい休憩しながら八時くらいまで吟味しつつ試飲してたら、再会した店員に「今まで飲んでたんすか……?」って言われたけど俺達はアルコールエリートなので君たちの常識で量られてはこまってしまうね。

 

問題があるとすれば、似た系統のワインを色々試して高級ワインもぺろぺろしておると、最初飲んで「うまい!」と思ったワインも後になってもう一度飲むと「あっそれほどでもない!」となる、一日にして舌が肥えてしまう現象が起こったことであった。

 

そして結局僕達はまた赤ワインを野菜室にぶち込む結果となったのであった。

 

おわり!

かぜはくのテイスティングノート―ストーキング篇―

事の起こりはつい一昨日、うちに一つの宅配便が来たことから始まった。

まったく身に覚えのない荷物なのだが、差出人を見たところすんこから某かの貢物であったようなのですんこなら仕方ないということになった。

 

内容物はワインブリーザー(要するにデキャンタ)とワインストッパーと芋の皮剥くやつであった。

 

デキャンタに関してはそのうち買おうと思ってたからうれしい!ありがとうすんこくん。今度何かしらでお返しするね!(と言って前の貢物から半年近く過ぎている)

 

芋の皮剥くやつは多分僕がすんこくんに手料理をぶちこんだからだと思う。芋だけではなくごぼうの皮も向けるからこれでかぜはくは剥きエルフ的な存在となり、懐古、幻想、郷愁、憧憬、あるいは皮に対する異常な執着を纏いて筑前煮とかを作る。

 

ワインストッパーに関しては酒飲み二人での暮らしにおいてはあまり活用の機会がないのだが、飲み比べとかの時に使われるであろう。基本的に開いた酒は飲むからね。

 

で今日は何を飲むかと言うと、ヴィルマジューというフランスはラングドック・ルーションのワインだ。ヴィンテージは2013。

 

掻い摘んで説明すると、まあ南西地方のワインであって、品種はシラー、グルナッシュ、カリニャン、ムールヴェードルがそれぞれ25%ずつ混ぜられたやつだ。

シラー(しっかり)、グルナッシュ(特徴的)、カリニャン(特徴的)、ムールヴェードル(シャバシャバ)が混ざり合うことによってどのようになるのか見てみることにしましょう。

 

そういうわけでデキャンタージュする。


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どぷどぷ言いながら注がれていき、すんこくん好きそう。

ギフトのメッセージに好きなエロ漫画家の語録を入れるすんこくんなら好きそう。

 

でぎゅすたしおーん

 

香りは明らかなグルナッシュ臭。僕はグルナッシュが好きなんだよ。変な匂いするから。

飲んでみると癖のある匂いの次に来るのは南系の味わい。余韻は甘く、長続きする。


デキャンタージュすると癖のある匂いにまろやかみが増す。

それに伴ってデキャンタージュしなくても長続きした余韻が、無限に感じられる。ずっと口腔から喉あたりに濃厚な果実味が居座り続ける。

 

スワリングしたあとのワインの涙から見て取れるグリセリンも多い。ねっとり系で香りも味もアルコールも余韻も粘着質。

 

僕はこういうのが好きなんだよ!


なんか良くわかんねえけど酸化防止剤にビタミンCがぶち込まれており、なんでなの?って気になって調べてみたら亜硫酸塩より比較的安全だから?みたいな結果となり、つまり良くわかんねえということになった。

ポリフェノールとビタミンを補給したことにより、もしかすると僕は不老不死になったかもしれん。

人の子よ、さだめられし命を持つものよ。命に飽きよ。生を貪れ。水に瓦を積み重ねるのはやめにしよう。全ては有限。移ろい、失われ、朽ち果てるのがさだめ。それこそが命なのだ。いつまで有る無しのわずらいになやんでおれよう? 短い命をたのしむに何をためらう? 酒盃に酒をつげ、この胸に吸い込む息が出て来るものかどうか、誰に判ろう?あすの日が誰にいったい保証出来よう? 哀れな胸を今この時こそたのしくしよう。月の君よ、さあ、月の下で酒をのもう、われらは行くし、月はかぎりなくめぐって来よう!


南系のいいとこは値段に比例して素直にうまくなるし、すぐ開けてすぐうまいのもかなりある。
濃厚かつコクがあることと(要は僕の好きな味)、コストパフォーマンスもかなりいいというとこが超いい。誰でも味わえるし、うんちく抜きにうまい。


にしても余韻しつこ過ぎない?ストーカーか?おれはくわしいんだ。

 


 

かぜはくのテイスティングノート―姫騎士篇―

えらい人に「テイスティングノート付けてるよね当然?」って言われたので付けることにする。

いやつけてたよ?当然だよね?俺様エリートだしね?

 

今日飲む奴は…………姫騎士アンジェリカです。


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なんでそうなったかっつーと、このワインは「エスクード・ロホ」と言うのだが、「赤い盾」という意味で、なんでそんな名前が付いたかっつーと赤い盾さんが作ってるからというわけです。つまりバロン・フィリップ・ロスチャイルドさんです。ロスチャイルドさんというのはロートシルトさんなわけです。姫騎士アンジェリカなわけです。あなたって本当に最低のクズだわ!!!

 

さてテイスティングノート。

このワインのコンセプトは、力強いチリワインは安くてうまいのだが、それをフランス第一級シャトーの力量で熟成可能なワインを作ってみたらどうなるのかというやつです。

 

能書きには「デキャンタージュしろ!さもなくば禍に苛まれるであろう!」と書いてあるのでそのようにする。

我が家にはデキャンタがないのでポットにどぼどぼするのだ。

 

で。

デキャンタしても第一印象は「こいつなんか変な匂いすんぞ!!!」だった。

くせえ!一口。くせえ!ちょっと寝かせてみよう。

…………

この匂いがどこから来るのか舌の上で探してみよう。熟成香?樽臭?カベルネソーヴィ二ョンの木っぽい香りから来るものなのか?

この時点で三十分くらい。

ん?このワインファーストノットはともかく後味かなりいいな?高級ワインのそれだな?

……
さらに空気に触れさせる。

不意にあの妙な匂いが落ち着く。これは想像だが、変な匂いはカベルネソーヴィ二ョン由来のもので、七年の熟成から目覚めた時、一番最初に起きたのがブレンドされた品種の内カベルネソーヴィ二ョンだったんだろうと思う。しばらく立つと起き抜けの不機嫌な感じがなくなって、他の品種たちが目覚めてきてカベルネソーヴィ二ョンを宥めて全体の調和が訪れる。素晴らしい余韻はかなり長く続き、それが嫌味でない。
しばらく空気に触れさせた後の素晴らしい味わいを感じるために最初の一口を飲むのはよいと思う。

 

ワインの面白い部分の一つが時間とともに味わいの変化があるところだと思う。

最初の悪印象を、後から挽回したあとが真骨頂で、高級ワインの名に恥じぬ味わいがある。

ゆっくりと時間の流れと味わいの変化を楽しむには実によいワインであった。

おわり!

 

 

俺達が油田だ!

業務スーパーを馬鹿にするやつはいねがーーーー!!!!!!!

 

業務スーパーはいいぞ。何がいいってテロワールがあるんだ。

野菜の安い業務スーパー、生鮮食品の安い業務スーパー、精肉の安い業務スーパーなどいろいろある。

我々が肉塊を求めるのも大体業務だ!肉の安い業務だ!!!!!

 

それを差し置いても業務で買うべきいくつかの品があるよね。

僕としてはピクルスがイチオシなのだが、昨年味のやばいやつに中ってしまい、やばさがやばくなったのでそれ以降ビビっている。

 

「野梅」の検索結果 - Yahoo!検索(画像)

 

で、冷凍フライドポテトですよ。

まあ色々言うやつは言うだろうからそれはさておき、これが飯としての広がりがよい。

塩胡椒、マスタードケチャップ、ゆかり、醤油などまあ無限に広がるのだが、兼ねてより我々はフライドポテトに塗す味について思いを馳せておった。

 

で、その結果こうなった。

 


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ナチョストルティーヤチップスをフライドポテトにしてみてはどうか?という思いつきであった。

冒頭であれほど業務スーパーを持ち上げておいてなんだが、ひき肉は別のスーパーの方が安いので我々はそちらに向かった。資本主義の――金の前には全てが無力なのだ。課金しようネ!

 

で、スーパーを出てしばらくした後に気づいたんだけど、サルサソースを買い忘れ、ナチョスの最重要要素を欠いたことによって、これから作り上げられる料理がナチョス-1(あるいは2、もしくは3)となる絶望が我々を襲ったが、我々の勇気はそれを退けた。

 

つまるところ、ハラペーニョもねえしなんたら豆もねえし、今更要素の一つ欠いたところで知ったこっちゃねえ!!!となったのである。

 

で、やってみたらこれがうまかったんだよね。

㌍の暴力で一瞬三途の川が見えたけど、これは多分三途の川が見えるタイプのうまさ。そういう部類のやつなんだよね。

 

油摂取しすぎてもしかして我々は油田なのでは?とさえ思えてきたのだが、現実はそんなに甘くはなく、僕は明日から新しい職場で働くという感じです。そしてその新しい職場でのポストは、石油王ではないことが悔やまれます。

 

それはそれとしてめしがうまかったのでよかったですね。

韃靼

新婚旅行の前に色々本などを見て、フランスのワイン専門店で出すタルタルステーキなるものに興味を持ち、おうちで作るなどした。
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新婚旅行ではそのワインショップに訪れたのが遅い時間だったこともあり、タルタルステーキは食うことが出来なかったのだが、新婚旅行の満足度は非常に高かったとは言え、それだけが心残りであった。

 

それはそれとして今日作ったタルタルステーキは非常に美味かった。得にマスタードを加えてのちの味わいなどは、その広がりを表現するに相応しい語句などに悩むほどである。

 

最近生肉に我々は二人して嵌っているのだが、これ、まじでよい。

各位試してあれ。

 

 

韃靼の話する?韃靼って言うか、まあ遊牧民ってアツいよね。長くなるからまた今度ね。

 

天、地、人、我、君

かねてより社会人になってからの己について、その精彩の欠如、低迷について頭を悩ませていた。

大晦日の路線バス、それも最終バスなどは人なぞ乗らぬし、思うまま思考に浸ることが出来たので、今日得られた一つの答えについてこれまでの振り返りと共に書く。

 

そもそもの思考の始まりは、ファビュラスという言葉だった。これは最近よく耳にする叶姉妹の独特の言語センスの一節なのだが、僕はこのファビュラスという単語に一つの思い出があった。

そこで思い起こされたのが、「ファビュラス」というギルドと、そのギルドマスター、ミリッシュの事であった。彼女に関しては語るのが惜しく、また安易に語るべきでないその思い出より、僕は我が主上にして全能の超人的存在、くくさまとミリッシュの関わりについて考えた。

決して二人の関係は良好ではなかった。くくさまの親友とミリッシュは共に鍛冶スキルにおいて、世界一を争い合う関係であって、くくさまはそんなミリッシュの作った武器を、市場での絶対数を減らすために買い上げては焼却したりしていた。

 

なぜくくさまはあんなことをしたのだろう?と考えた。

僕は、くくさまが超人だからだという答えに達した。

 

ここで、僕の話をしたい。ここで僕の話をいれることによって、まず間違いなく混乱を生むのだが、今回は僕の思考の順序に従って書きたい。

 

僕は高校生のとき大悟した悟りは、「常に自分の形を見定め、欠けている点を補うこと。またその方法について模索すること」だった。僕の中のイメージで、凹みや傷、ひび割れなどを触って確かめて、綺麗な珠にするという感覚があった。僕はこれを珠玉の悟りと呼んでいた。

 

その後もいろいろと悟りはあったのだが、今書くべきなのは、超人の悟りについてであろう。

これは前述の珠玉の悟りの向かう方向について考えた時、高校生の僕は漠然と、「良い方向」へ改善していくように考えていた。

しかしその「良い方向」とは何か?大学生の時に考えて辿り着いたのが、「既存のよいとされている方向ではなく、自分で導き出した、自分自身の思う良い方向」であった。後からニーチェ読んだらまんまそれが「超人」の定義であったので、これを超人の悟りと呼ぶ。

 

で、この自分自身の思う良い方向というのは、人に認められないことがよくある。言ってしまえば大衆迎合からの離脱と放棄であり、良い方向に向かうために尊重される事柄が、大多数の正義ではないからだ。自分自身の正義だからだ。

 

僕の場合は、自分や、自分のまわりにある大切にしたい人達などが、僕の正義にあたる。

 

おそらくくくさまもそうだった。

僕達は超人だからそうなる。ただその点において、現在の僕とくくさまが異なるのは、その超人の精神を体現しているかどうかだ。

 

超人の悟りを踏まえての僕の座右の銘がある。

「不愧天地」だ。僕は僕自身の正義に則った行いを、人にどのように言われようがそれを恥じたりしない。そういう意味だ。

 

詳しく書くことは避けるが、今僕が苦しんでいるのは、大多数の正義に押しつぶされて、自分自身の正義を貫けぬことだ。恥じているのだ。

凡愚の、取るに足らぬ利己的な的外れの正義に屈しているのだ。

人間というものに抱いてた理想と、社会に出てから見た現実との乖離、それが最大の苦悩なのだ、と考えた。

 

しかしそう考えると、一つの疑問が浮かび上がった。

僕が恥じているのは、本当に「天地」かということである。

 

不愧天地の元となった言葉に、我独慙天地というのがある。

これは、ほかの人間がどのように悪辣で、蒙昧なることに恥じ入ることをしなくても、自分ひとりは天地に恥じて正しい行いをするというものだ。

天地の他に並べられるものは幾つかあるが、人というのはそのうちでも頻出する部類のファクターである。

 

なぜ僕が不愧天地などと言い出したかといえば、相手が天地とかいうでかいもんであろうと、恥じるのだせえじゃんと思ったからである。

しかし天地とは、僕が恥じているものはそんなものだろうか?この巨大なだけで、愚鈍な、白痴じみた化け物が。僕が恥じているのはもっと別の、理屈の通じぬ、例えば――人ではないのか?

 

例え超人であろうと、常に超人であることを体現することは難しい。自分自身の正義を体現することは、例えばくくさまの行いのように、人に理解されぬこともある。

しかし超人が、その正義に則って生きるなら、自分の正義にあだなすものは常に存在する。それどころか、自らの正義を持たぬものが、稚拙な大多数の正義のもとに立ちはだかることもある。

我独り天地に慙とは、自分とはまた別の正義だけでなく、そのような凡百の、民主主義の暴力の担い手たちが如何に自分の正義に異を唱えようと、自らの正義を確認し、または疑いの目を向けて、常に正義を内包する自分自身を更新し続けていく自戒の言葉ではないかと思う。

僕は、社会という妖怪に取り憑かれて、その自戒を止めてしまっていたのだ。

 

そういう結論に辿り着いたところで歳が明け、酒がまわり、良い感じとなったので、諸君あけましておめでとうという感じにして

このあたりでおやすみしたいと思う。

グズッてる男の子がいたので。

おそらくグズり期であろう男の子と、その母親がいた。

ちょっと想像力を働かせてみたら、こういう時の親の心境がまじで切羽詰まったもんになっているのではないかと推測できる。

我が子は泣き止まないし、その理由も判らない(泣きながら訴えていることと、泣いている理由は違ったりするようだ)。加えて公共の場で、周りの視線や無言の抗議も痛い。

こういうとき親はどうしたらいいのか?ということについて考えてみた。

 

まずグズり期というのは、親にとって大変困る時期でもあるのだが、子供にとっては成長の機会であって、その貴重さは他に変え難い。ワンダーウィークとか言うらしいね?

 

ので、まず周りのことは忘れましょう。

よく訓練された人間は、我が子と社会からの同調圧力を天秤に掛けてしまったりするかもしれないが、社会は言うほど何もしてくれないので社会の事は忘れて、まず我が子のことを考えたほうがよかろうと思う。

まず考えるべき問題を少なくしていく。

 

「もっとあれしたかった!」

「もっと食べたい!」

「おうち帰りたくない!おうち嫌い!」

「お母さんあっちいって!」

などとずっと泣いていたのだが、このお母さんのよく出来たところは、叱りつけて黙らせることをしなかったこと、更に子供の要求を飲むでなく、耳を傾け続けたことだと思う。

今から思えば、あれは最適解だったに違いない。

 

でかい声出したらそら子供は黙るかも(もっと大声で泣くかも?)しれんのだが、それは子供を意味もなく押さえつけているだけであって、感情的に相手を支配しようとしている部分においては、泣き叫ぶ子供と何ら変わらんのではないかと僕は思う。

子供と言えど一個の人間であって、その自由意志は尊重されるべきだろう。しかしそれが理性的な自由意志であればである。

グズりと言うのを、子供の様子から鑑みれば、願望や意思というよりは、むしろ精神面の成長に理性の方が追いついて行かぬが故の、感情の発露とでも言うべきものではないかと思う。

だとすれば、その理性的でない感情の発露に逐一答え、望みを叶えるということこそ、グズりに期待される成長を、いわゆる条件付けの強化によって無意味なものにしてしまうのではないかとも。

 

厳しい躾、甘やかす躾についても考えねばならぬように思う。

叱りつけることをこそ、厳しい躾であると僕は思っていたのだが、考えを改める必要がありそうである。

同じように、叱らないこともまた、甘やかす躾の一つであるというように思っていたが、これも違う。

グズりの表層にある願望をすべて叶えてしまう、そのような務めることこそが甘やかしであって、無意味に叱りつけるようなのは、躾というよりは子供の気持ちをあまりにも無視し、教育についての模索を放棄した思慮の浅い妄動ではなかろうか。

 

子供からすれば、グズりというのは理性の埒外にある。咳やくしゃみのごとく、非随意なものである。それを叱りつけて黙らせるというのは、「これをすれば叱られて、問答無用で黙らされる」という単純強化となり、その場は静かになるかもしれない。しかし自分のコントロールできる範囲の外にあるものを、それがなんであるかも判らないのに、完全に否定されるのは子供にとってどうか?悪影響があるようにも思われる。

 

とりとめもなく書いたが、積読になっている『親業』を読むことを宿題として、この辺で締めくくることとする。