かぜはく電脳曼荼羅

玄秘学、食文化、ゲーム、生と死に非常な関心があります。

壺中天

 長らく、インターネットというのは僕の逃避の行き先であった。

   逃避というのは事によっては適切な言葉ではないかもしれないのだが、僕はそのように捉えている。結構な昔から厭世家としてやってきたし、現実というものから逃げる場所を探していたように思う。しかしその逃避は不仕合わせなものでもなければ、鬱屈した呪いの日々でもなかった。むしろ得難い出会いや、体験、成長に満ち溢れた輝かしき日々であったように思う。

 僕にとってのインターネットは、まさに壺中の天地であった。とはいったものの、この壺中天は隔絶されたものではなく、現実とはまた別の小天地とでも言うべき空間であった。この壺中天の使い方というのは、人によって異なる。僕は専らユビキタスキャプチャーとしての自らとの対話に使うことが多いのだが、中には壺中天そのものを「愛の表現」にしてしまうようなものもいる。
 最近は壺の中に入るアイテムを皆が持っているらしい。その結果現在隆盛を誇っているのがSNSなのだが、このソーシャルネットワークサービスなるものは、コミュニケーションツールとして完成に近いと感じている。年齢や性別、国籍なども差別なく、社会的に繋がることが出来るというのは、実に革新的な、人間の悲願とも言うべきツールではないかと思うのだ。
 しかし、問題があるとすれば、SNSの方ではなく、我々人間の側にあると言わざるを得ない。先に挙げたような、様々な社会ネットワークを構築する上で障害となりうる様々な要因を無視して一つの壺の中に投げ入れてしまったが為に、却って人間の持つ本質を浮き彫りにさせてしまったように感じられる。特に負の側面を。それは怒りや嫉み、怨みなど呼ばれているのだが、社会性を生み出す為のツールが何故だかそういったものを煮詰る効果を持っていたとしか言うほかない。
 現実に現れた、理想としての人間関係というのは、思ったよりサルの群れに似ている。僕はそのように感じた。
 僕が最近生きづらく感じているのは、SNSというものが、社会性というものを重要視するあまりに、壺中天を浮世に限りなく近いものにしてしまったことに端を発するのではないかと常々考えている。僕がインターネットでこの先生きのこるために、壺中天の中にもう一つ壺中天を作ることにする。
 それが必要なのかどうか、判らない。最近ではこの壺中の天地よりも、現実のほうが幸せであるとすら感じてきているのだ。僕の中でそれは逆転してしまった。
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   今日、何をして生きたか。それが明確に言えない日々に、果して意味はあるのか。今日という日を何のために生きたのか。何を考えて過ごしたのか。そういうものに今一度内省しつつ、書いていきたいと思う。