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鏡花ちゃん


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読了。
珍しいことにおばけの話があんまり収録されていなかった。(高野聖はのぞく)
変わりに収録されていたのが女のはなし。

鏡花ちゃんは年上の女性フェチなのですね。

実は以前までハードカバーの『泉鏡花集』を読んでたのだが、これがもう旧仮名遣いの上に鏡花ちゃん独特の書き口で読みづらいことこの上ない。

ので、文庫版で買ったのだが新仮名遣いになるだけでこんな読みやすくなるとは……。
いや、決して万人に読みやすいとは言えんけど。

僕の文章というのは、迂遠だとよく言われる。
多大に鏡花の影響を受けていると思われるのだが、大学時代の教授には三島由紀夫とか好きでは?などと言われた覚えがある。

で、確認してみたら確かに持って回り方とかそういうのは三島よりな感じはするね。

何にせよ、鏡花の文章というのは模倣すら難しい。僕にはそのように感じられるのだが、その難解さ以上に憧れがある。

よくよく見てみると、別段鏡花は迂遠というわけではないんだよね。
情景描写が恐ろしく緻密で、言葉の尽くし方に心を砕いているのは確かだが。
湊屋の奥座敷、これが上段の間とも見える、次に六畳の附いた中古の十畳。障子の背後は直ぐに縁、欄干にずらりと硝子戸の外は、水煙渺として曇らぬ空に雲かと見る、長洲の橋に星一つ、水に近く晃らめいた揖斐川の流れの裾は、潮を籠めた霧白く、月にも苫を伏せ、蓑を乾す繋船の帆柱が森差と垣根に近い。

歌行灯の一節なのだが、描写するものの多いこと。

僕の弱点はここにあって、一つのものを説明するのに言葉を尽くしすぎるところではなかろうか。

参考になるなー。


鏡花の文章は、現代の文法というのに照らし合わせた場合――読みやすさを文法の意義と捉えた場合特に――それから逸脱している。

個人的には文章を書く時に、人類にあまねく伝わるようになどとは考えないし、大衆に迎合したものは僕にとってつまらないものになってしまう。

だから文章というのは自分のやりたいように装飾を施すし、自分自身の文体というものを突き詰めることこそ、物を書く者の、文章というものを介した自己対話の極地だと思っている。

それに比べれば、他人に合わせて文章を読みやすくするなど軟弱者のやることだとすら思うのだ。文法なるものは文章を書く上で必須だが、必ずしも四角四面に、皆乍ら守る必要などない。決まったものを如何にぶち壊すかというのは、僕にとっての命題だしね。

つまりその、己自身を表すということについて僕は深い関心がある。

そういう意味で僕は鏡花が好きだ。鏡花の文章は鏡花にしか書けぬ。

そういったものを参考にしつつ、己の文章を鍛えていこう。