虚無からの解脱
古来、様々な宗教が、神々の坐しし清浄なる楽園の存在を説いてきた。
そこには精神的潤いであるとか、快楽に満ちているだとか好き勝手に祭祀者どもは言うのだが、月に叢雲、花に風。天人にも五衰あり。不苦不楽の世界とは、まさしく虚無に他ならない。
自らのあるこの浮世を見よ!今我が隣には、美女があり、美酒があり、友がある。
これに勝れる極楽がどこにあろう?よほどこの現世のほうが、虚無そのものであるあの世にある楽園より、楽園じみている。
悟った。
重要な報告があって、時間を見繕っていろんな人に声をかけた。
この間から僕は生に苦しみを、息苦しさを感じていて、何となくこの世を憂いていた。生に疑問を投げかけ、迫りくる死の誘惑を振り払うというのは、これまでもよくあるかぜはく通常運行なのだが。
そうしているうちに、人と話していると、自分の中の世界に徐々に光明が指していった。生というものを包んでいた暗雲を、とても珍しいことだが、自分の力ではなく、他人に助けられて晴らすことが出来た。
昨日声をかけたのはすんこくんであった。
最もであると感じたのは、彼のこの一言である。
[22:08:36] よっすんすんこ: だからニーチェすると死ぬんだ
確かに僕はちょっと前ニーチェをかじったのだが、驚くことに、虚無主義にとらわれていたらしい。正確には、厭世主義にまみれて、その行きつく先は虚無しかないと思い込んでいた。
これが、今回の悟りである「虚無からの解脱」の始まりであるといえよう。
次に話をしたのはいくえであった。
彼女はいつも僕に、重要な局面でまた別の視点やヒントをくれたりするのだが、今回改めて感じたのは、いくえの「相手が叱ってくれる人でよかったね」という一言であった。
そう、僕を叱ることが出来る、というか僕を叱って、それが僕に届く――届けられる――人間は実に少ないのだ。その相手の存在について、僕は改めて僕の幸せを形作るものが、僕のそばにあることを感謝した。
最後に、これまでの二人がくれたものを用いて、僕を悟りに導いたのはまぁささんであった。
彼女は、僕と同じ敗れざる者だ。多くを語ると、本が出版出来てしまうので割合する。
彼女の「その後」を聞いていると、それまでに得たものがちらちらと、深更の真っ暗闇のうちに、天を覆う木々のその末梢の間から夜空の星のまたたきが見えるような、もどかしくも、しかし確かな思考の冴え渡りを感じたのである。
僕に必要なのは、虚無にたゆたうことの快楽を知ってしまったわが身を、その全能たる悦楽から救い出すことであると知った。
反虚無だ。
虚無とは僕の中では極楽、天国、デーヴァローカ、そのようなものとある意味で同一であり、すべての救いであり、拒否であり、否定であった。
しかして、今我が身を見ていれば、そういったものよりも、より極楽めいたものに囲まれて暮らしていることに気付いたのである。
もはや僕に虚無は必要ないのだ。