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アクラシア

 『アドラー心理学入門』(ベスト新書)を読んだのだが、覚えておくべきだと思った一節があったので、備忘録的に書き残しておく。

 

  ギリシア哲学ではアクラシアー(akrasia)、もしくはアクラテイアー(akrateia、無抑制、意志薄弱)という事態があるかどうかということが、哲学の一つの重要なテーマになります。意志が薄弱であるという理由で、あることが善(すなわち、先に見たように自分にとって得になるという意味)であることを知っているにも関わらず実行できない、あるいは、あることが悪い(自分のためにならない)ということを知っていながらもそのことを行うというような事態を指しています。(中略)

 アドラーは、このようなアクラシアー、たとえば感情に支配され、悪いと知りつつもしてしまったというようなことを認めません。あるいは、二つ以上の選択肢があっていずれかを行おうかと迷い、決断できないという葛藤という事態を認めません。一見、ある行為(A)が自分にとって善であることを知っていながらそれを行わないということがあるとすれば、Aが善であることを知りながら行わないのではなく、それとは別の行為(B)がその時点で自分にとって善である、と判断しているからです。(中略)

 全体としての「私」があることをする、と決めたりまた、しない、と決めたりするのですから、心のある部分はしたい、と思っているが別の部分はしたくないというような乖離はいっさいありえないのです。わかっているができないというとき、実は、出来ない(cannot)ではなく、したくない(will not)のです。

 

  意志薄弱というのは、中学時代からの僕の一つの関心事であったのだが、アドラーにはそれを否定されてしまった。

アドラーの考え方自体は僕の思想やライフスタイルと親和性が高く、取り入れるよりも前に身に付いているものが多い。

 それについて、意志薄弱というものに対する答えも、このアドラーの言う答えが僕にとってはもっともしっくりくる答えであるように思う。

 僕がやりたいと思うことが出来ていないのは、やりたいという感情の裏に、したくない(他のことをしたい)という感情があるからだ。

 アドラーはそういう甘えた根性を全否定してくる。単におまえそれはやりたくねえんだよと。

 

 アドラー心理学について学ぶにあたって、この新書では僕はちょっと物足りなさを感じた。決してアドラー心理学をすべて受け入れるわけではないが、判断材料の一つになるとともに、問題解決の、また別の目線になりうると感じた。 

 

 これはこの本で初めて知ったことなのだが、アドラーは教育に力を注いでおり、そういう点でもこれから学ぶべき分野であろうなあと思う。