かぜはく電脳曼荼羅

玄秘学、食文化、ゲーム、生と死に非常な関心があります。

以前超えられなかった壁に再び当たり、父親の訓示を受けて光明を見いだしたる話

かぜはくは学生時代ブイブイ言わしていた。

僕の前に敵はなかったし、僕が仲間と認めた奴もそこそこ強いやつが揃っていたので向かうところ敵無しであった。

 

ただ一つ僕が大学時代に失敗したと言えるのは、人を育てる力を養えなかったことにある。

やる気と実力のない、誰かに救われるのを待っている放蕩の破落戸だとしても、僕はその時人を育てることに真剣になれず、結果として職務を放棄した。

 

以来実はそれなりにその事について考えた。

 

今も思い出すのは、酒を強かに飲んで王の状態になった僕を見て、大学に入ってから出来た友人がふと漏らした言葉だ。

 

「王の実力は王と呼ばれるに相応しいもので、それ自体は誰もが認めている。しかし王の臣民――この人はかぜはくの臣民であるなあと人が認める人間が――不相応に少ないのだ」

 

まさにその通りであったと思う。

 

今にして思えばそれもまた、今回の答えに至る一つの助けであった。

 

悟りという言葉を前使っていたが、こういった他人に気付かされたようなのは悟りとは呼べない。だがこの先の悟りにたどり着くための重要な足がかりであることは違いない。

 

 

 

社会人になったいま、これがまた学生時代とは比べ物にならないほどのどうしようもない奴を部下に持ってしまい、否が応にも過去の失敗を想起してしまう日々を送っていた。

 

なんでやる気ねえやつを導いてやんなきゃなんねえんだよ。

なんで俺様の言うこと聞かねえ奴のために尽くしてやんなきゃなんねえんだ。

そもそも費用対効果が見合ってないんだよ。この愚図どもに仕事を任せるなら僕が自らやったほうが一千億倍納得のいく仕事が出来るんだよ。

すべてのロボットアニメは道を譲れアホボケカス!

と学生時代と全く同じことを考えていた。

 

山本五十六がやって見せ、言って聞かせてさせてみせ、褒めてやらねば人は動かじ。

話し合い、耳を傾け承認し、任せてやらねば人は育たず。

と言っているのだが褒めるところもなければ出来もしないし話し合いにもならない、どうにもならないようなのもこの世には存在する。

じゃあそんなのどうしたらいいの?

高校生の僕なら愚図は死ね!と言って切って捨てただろうし、大学生の僕は諦観して距離を置いただろう。

 

で、自分の考える理想の王について言うならば、自分の大学時代の選択は大いなる過ちであったと認めざるを得ない。

それならまだもっと前の僕の方がよい。

虚無主義の暗君よりは無慈悲な暴君のほうがまだ僕はついて行こうと思えるからだ。

 

 

そんなこんなで部下がさっぱり成長しないまま三ヶ月ほど経った。

 

この打てど響かぬ感じはもう慣れたもので、今度も半分以上人を育てる仕事に関しては職務放棄していたところであった。

だからと言ってそのままでは数年経って何の成長もしていないと言うことになってしまう。

さりとて解決策も得られぬまま、時は流れていく。

 

最近生活の上で寄る必要があり、実家に度々帰っている。

今の親との距離感は実家で暮らしていた時より遥かにお互いにとってよい。

父母も実家の猫も僕の家内のことを気に入ってくれているし、会話にもなる(すなわち以前は会話にならなかった)。なにより、実家で暮らしていたころよりお互いにお互いの力になろうとする働きがある。

 

僕はふとした思いつきで、昼間から飲んだくれている耄碌した親父に尋ねてみた。

「人をどのようにして指導するのか」について。

酒がないと力が入らない親父は手を震わせながら、どうしようもない月並みなことを言い始めた。

 

「きつい言い方はしたらあかんのや」

「物腰は柔らかく、しかし言うべき時は言わなきゃいかん」

 

んなこと判っとるわい。もっと含蓄のあることは言えんのかと思っていたのだが、この言葉だけは響いた。

 

「こいつにならついていけると思われるような人間になることや。何だかんだと教えるのはその後で、それこそが前提条件や。」

 

それ自体は別段特別な内容というわけでもなく、自己啓発本やらで見ることが出来る内容かもしれない。

僕に何かを教える時、「ヘッタクソやなお前!」「力のない奴やのう!(怪力無双のかぜはくに向かって)」「全然やないか!」などと悪態をつく親父ではあるが、その平凡な言葉には社会人四十年の(今はニート!)確かな重みがあった。

 

霧中に行き当たった灯台、パズルの空いた部分にひとりでに収まるピースのような、そのような物が見えた。

あるいは暗雲の雲井に、ほんの僅かに顔を見せた悟りの明月の幽き光だ。

 

親父の平凡だが重みを持った言葉が、僕が来し方常に追い求めてきた王としてのあるべき姿――それに何が足りないのか――を明らかに照らした。

 

僕なら、自分のことをどうでもいい、どうにもならないゴミだと思っている相手にはついていかない。

まことに、まことに申し上げるのだがこの僕には生まれつき王としてのカリスマというものが備わっていて、それこそが自分を信じられる柱にもなっているのだが、それだけで付いてくる人間ばかりではない。

本音を言えば別にアホの相手はしたくないのだが、だがそれは僕の目指す自己実現とは反してしまう。

ムハンマドのようにあれと思う。

自分や自分の規範にしている何かがそれを望まないからという理由で、目的を達成する手段を狭めてはならないのだ。

 

僕が今までついて行きたいと思った人間は誰だ?と考えて、僕にとっての「家庭教師」である人物と偉大なる我が主上にすぐに思い至った。

彼女らが僕に向ける態度はどんなものであっただろうか?

なぜあの友人は僕の民がいないと言ったのか。

全てが一つの答えへと収束していった。