かぜはく電脳曼荼羅

玄秘学、食文化、ゲーム、生と死に非常な関心があります。

かぜはくのテイスティングノート -ヘラクレスの栄光再び篇-

2013 ネメア・リザーヴ/カヴィーノ

 

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毎日が忙しくてなかなか日記が書けないぜ。

 

僕ちゃん地中海のワインが好きなんですよ。

だからイタリアとスペインと南仏ばっか飲むことになるわけですが、たまに面白い産地があると試してしまうよね。

 

というわけで今回はギリシャです。

ギリシャといえば哲学の生まれ故郷であって、非常に面白い、典雅な歴史の宝庫でもあるわけだが、世間にとってのギリシャのイメージといえば、やはり財政破綻国というところであろう。

いやしかし待ってほしい!ギリシャという国をまるで衰退したみたいな言い方をするのは!!

 

むかしからあんなんですよギリシャは!!!

都市国家が乱立しまくっていた国なので団結が大不得意で、民主主義が発達してるから衆愚政治になりやすくて、仲間割れと足の引っ張り合いが得意でうだうだしてるうちにメインストリームじゃなくなってたみたいなとこです。

 

ヨーロッパ文化の源泉と見る見方もあるが、それもギリシャのド辺境出身のアレクサンドロス三世がギリシャ文化をアジア以東に広めたときにはすでにギリシャギリシャ文化の中心ではなくなっていたし、その後ギリシャを征服したローマがギリシャ風文化おしゃれじゃんって広めたからであって、ギリシャ文化が西欧の文化の源泉になったのはローマの功績といえよう。

 

 

そうは言っても実際ギリシャが生み出した文化は素晴らしい。

筆頭として挙げられるのは文学であろう。

ホメロスが紀元前八世紀にその原型を作ったと言われる『イリアス』や『オデュッセイア』などは叙事詩として今日まで伝わる冒険活劇の祖とも言える作品であるし、ヘシオドスの書いた『神統記』などはギリシャ神話を理解するために今も紐解かれる書物である。

『歴史』を書いたヘロドトス、『戦史』のトゥキディデスバビロニア研究者からも評価の高い『アナバシス』のクセノフォン、「全ての陳腐なものを忌み嫌う」カリマコス、「体は自由にできても心までは自由にできない」エウリピデス、レズのサッフォーなど古代ギリシャの優れた文学者については枚挙にいとまがない。

 

例からも分かる通り、古代ギリシャの文学とはほとんどの場合が詩であった。優れた詩を元に劇作家たちが喜劇や悲劇を作り、ヘレニズム文化を作り上げていった。

そして詩は哲学を醸成した。ソクラテスなどは詩人であったし、彼の弟子であったクセノフォンも前述の通りである。

プラトンは詩人追放論などからも判るように、明確に詩を批判する思想を持っていた。しかしながらこれこそが哲学における重要な姿勢であって、ソクラテスと詩の批判をプラトンがすることにより、いっそうギリシャの哲学はアカデミックなものとなった。

いわば詩とは哲学の父である。

まあ哲学の話はまたやるとしよう。

 

ワインの話に戻ろう。

このワイン、ヴィンテージが2013年ということでもう8年ほど熟成しているのですが、果たして大丈夫なのですか?という疑問にまずお答えしましょう。

ギリギリ大丈夫でした。

 

いやちょっと酸化熟成が進んでいるね。

ギリシャ

・千円台で

・8年熟成で

・アギオルギティコ

どう考えても満貫手なのだが、結論からいうとそれでも僕は好きです。

 

詳しくテイスティングした内容は以下。

外見は黒みを帯びたガーネット。

アルコール度数は通常程度。

外見の印象からはヴィンテージほど熟成した印象は受けない。まだ寝かせられるイメージ。

あくまで見た目は……。

カシス、ブラックチェリー、カンゾウ、樹脂などの香り。やや酸化のニュアンス。

 

口に含むとまじくそめちゃくちゃタニックでえげつない酸味。木樽、カカオ、チョコレート。

この辺の酸味(あくまで完全に参加して酢になっちゃった酸味ではなく、アギオルギティコ種の強烈な酸)とか第一アロマとかが生きてるからまだ飲めるけど、かなり人を選ぶワインだと思った。

 

ちょっと置いといて落ち着かすか……と思って放置。この間、家内のお父さんがくれた鬼滅の刃無限列車編を見て過ごしました。

死んでしまうぞ杏寿郎!

 

置いとくとプルーンみたいなドライフルーツの印象が出てきて、そういうのとよく合う。バナナチップスなんかとも合ったね。

僕としては飲むうちに好きになるワインだと思った。酸味に慣れるというか……。

型にはまった美味しいワインの枠というのから外れている個性を楽しむワインとして見ると、なかなか面白いワインであるという結論になった。

 

ところでネメアで思い出したんだけど、金犀会っていうネットミームがあるよね。

あれ嘘も大概に混ざってるけど、「ネメアの獅子のようになれ!」とか「俺の人生みてえな雨だな」とか、「ゴメンチャイロクメンチャイ」などの台詞回しもよければ、一度金で手を組んだ殺し屋が言っていた「海か山か好きな方を選びなさい」を自分が殺されるときも聞くことになるとか、非常に出来がよくて膝を打った。

クボタの主人公への仄かだが確かな愛情なども、よい。

 

 

 

 

 

かぜはくのテイスティングノート いちご味篇

ランゲ・フレイザ/カヴァロット 


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イタリアのワイン大好きなんだけど、このピエモンテって地区は独特なんだよな。

山深いど田舎なのであまりイタリアらしくないというか……ここで暮らしている人々も職人気質の人が多く、ステレオタイプなイタリアではない。

しかしこのピエモンテという地区は、ワインの世界においてはイタリアワインの王にして王のワインとも呼ばれるバローロや、女王と称されるバルバレスコが生まれるなど素晴らしい産地として一定の評価を得ている。あとは甘口もあれば山の個性たっぷりな白もあったりと、個性的な産地であると言えよう。

 

イタリアのワイン法は割とガバガバなので品質に直結してないことも多い。だからそれがこのピエモンテの地ではいい意味で作用しており、高品質ワインはDOCG法を守った上で独自性を出して個性だしてきたりとか、土着品種に力を入れて新しい旋風が巻き起こったりとか、古代品種が蘇って歴史の息吹を感じたり出来るすげーことになっている。

で、最近ではイタリアではあまり一般的でない畑や地域区分なんかをエチケットに書いたりして、ワイン法の形骸化……というよりワイン法で表せないような細かい区分を作って、細分化を進めているようだ。

ワイン法ではDOPランゲだけどどこの地区のどの畑、だとか。

 

今回試してみたのは、自然派農法の作り手、カヴァロットが作るワインで、フレイザという品種を使ったワインだ。

このフレイザというのはイチゴという意味で、それだけ聞くと甘いワインなのかなという感じもしてくる。

しかしバックラベルを見てみるとアルコール度数15%と、めちゃくちゃ高いことが判る。

もうここからして不穏な雰囲気がある。

 

抜栓してみると、だいたい仰る意味がわかりましたわという感じがした。木苺の香りがする。

グラスに注いでみると色がめっちゃ濃く、とんでもない深みを感じる。

香りはフランボワーズ、レッドチェリー、カシス。はっきりした植物系のニュアンスがあり、ビオのワインだということが判る。

 

湿度の印象もある。シダ植物。

しかし堅いのでちょっとおいておく。

 

 

しばらくして飲んでみると、非常に筋肉質なタンニンを感じる。あととんでもなく強い酸。

一口飲んですぐに「酸つっよ!!!!!」って叫んでしまった。

 

明らかにネッビオーロと同じタイプの品種だ。

タンニンが強くて酸も強いから長期熟成できる。

しかし果実味はカシスやプルーンみたいな黒系果実ではなくレッドチェリーやキイチゴなどの赤系果実なので、そのアンバランスさはまさにネッビオーロっぽい。

強靭なタンニンと酸から伺えるのは、フェノール類の熟成した果実を使っていることだ。

 

バルベラなんかと飲み比べてみたい。

フレイザのタンニンを穏やかにすればバルベラとかに近くなるか?

苦しみの軛から如何にして開放されるか。

僕は大真面目に人類の救済を夢見ている。

ただ前例を見て理解できるのは、恒久的な人類の救済というのは不可能だということだ。

この世に人のある限り、苦しみがあり続ける。一人の偉人がいっとき、多くの人を救ったとしても、また別の苦しみに襲われるのは必定だ。それは様々な方法で人類を救済しようとした者たちを見れば判る。救世主が現れて、更に恵まれたことにその後継者が現れてもなお、歴史に残る偉人たちですら全人類の救済は出来なかった。

 

最近、浄土思想について考えた。

僕は人類救済の手段として、浄土を作ることを目的としている。

 

浄土というのはどうも遠いところにあるらしい。

苦しみの無い尊い世界であるということであるが、多くの宗教者がその浄土を追い求めた。死の先に浄土を見出した者もいた。

 

しかし人間が本質的に苦しみを内包する生き物であるとするならば、浄土は人間が足を踏み入れた瞬間浄土でなくなってしまう。正確には、苦しみのない世界ではなく、苦しみの可能性を持った人間が居る浄土になってしまう。

 

それって浮世と何が違うの?って思った。

自分勝手に生きるなら、僕は一人で生きる限り限りなく自分自身のために生きられる。僕は自分ひとりだけの浄土を作ることが出来る。

 

しかしながら、それを浄土と呼ぶことに僕は抵抗がある。自分の独りよがりな世界に僕以外の人が入ってきたとしても、その人が救済されるわけではないからだ。

だが、人間と関わる以上、僕の作る浄土の完全性は必ず損なわれる。

僕は僕の周りに、浄土を作りたい。全世界の人類を救えなくていい。

僕の周りだけでもいい。

苦しみから開放したい。

 

ところで最近、僕の悟りが敗北する出来事があった。

知恵は人間の本能に敗北し、僕の今まで悟ってきたものが誰一人救えない、自分だけを救う論理であることに気がついた。

僕が人類を救済するためには、まず自分自身の救済を行った上で、僕以外の人間を救済する土壌を組み立て、苦しみから開放されるためのシステムを構築した上で、人間存在にのしかかる苦しみを理解して解消する必要がある。

人間が本能に抗うことが出来ずに苦しみに苛まれるのであれば、本能に抗うための、苦しみから遠ざかる術を広く知らしめていかねばならぬ。

 

そうしてみるとやはり仏陀の存在はすごいと思うようになった。

仏陀個人は苦しみから解脱した存在だ。

仏陀のやり方やスタンスをすべて正しいというつもりはないし、仏教なるものを全肯定するわけではないが、仏陀個人についてはリスペクトしている。自分の知恵で苦しみから開放され、ブレイクスルー思考で世界を再定義して三悪を消し去り、自分以外の者も救おうとした。

 

でもそれって僕とあんま大差ないですよね??と思ってたのだが、仏陀はそれ以上のことをしようとした。

仏陀は自分の周りのみんなも救おうとした。そのために、自分の悟りを広めるという手法をとったのだ。そしてそれが他の宗教と比べて割合うまくいった。

なんでこんなことをしたかということについて、今の僕は実例を踏まえて納得をした。

 

余談だが仏教にしてもキリスト教にしてもやったことはだいたい一緒で、新しい解釈で世界を再定義して妄信的な原始宗教からの脱却を目指すことこそが主題であった。悟った内容についてPDCAを回し続けた点に於いてはイエスが優れていたと言えようが、この二人の違いは、伝道師の質の違いにある。

インドは哲学的土壌が醸成されており、宗教哲学が発展していたために室の高い哲学者が多数いた。仏陀以外にも六師外道などの優れた宗教哲学者がたくさんいたし、仏陀の悟りは十大弟子などの努力もあって正しく伝えられ、「原始仏教」という形で、今日まで仏教の礎としての姿を保ち続けている。逆に言えばイエスは代表的伝道師がアレ(パウロ)だったために当時の社会批判と、互助的性格を持つ共同体の推進が、何故かあんなこと(イエス=キリスト万歳)になってしまったため、仏教ほど実りのある宗教哲学がなされなかったと僕は考えている。

ユダヤ教エス派の現代まで続く宗教哲学は本当に、マジで不毛の一言です。

 

救済を主題に置く宗教の基本的な考え方として、自分の方法で他人を救うことが出来るのであれば、自分以外の人間が他人を救うことが出来れば救済される人間の数が増える。一人で人類は救済出来ないが、救済することが出来る人間が増えれば、救われる人間の総数も増えていくというところに非常に大きな意味がある。それ自体は本当に素晴らしいことだと思う。システムとして非常に良く出来ている。

このシステムは、現代に於いて使いにくい宗教という上モノではなく、もっと実利的で現実に即した救済の方法に適用すべきだと僕は考えた。

 

僕が誰かを救うことが出来る場を作れたのなら、他の誰かにもそういう場所が作れる。全人類が各々自分とその周りを救済する場所、いわば小さな浄土を作ってそれを維持出来れば、多くの人間が救われるのではないか。

人を救うには現段階ではこのシステムに可能性があるのではないかと考えている。

ただ、しかしその浄土の維持が出来ないから皆不幸せを感じているのだ。

実際に今、僕は人ひとり救おうとするだけで自分まで心神喪失しようとしている。

これではとても浄土だなどとは言えない。

 

しかしながら方法論は見えたように思える。救済するための方法をより洗練させることにより、僕の思う救済により近づくはずだ。

 

 

 

                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                

化銀杏

そうは言うが鏡花は人情ものも書く。

 

結婚生活にがうまく行ってない奥さんが親しい少年に夫の嫌なとこを愚痴りまくる話。

 

まず辞書引いたところ。

 

「芳さんかえ。」
「奥様、ただいま。」
 と下駄を脱ぐ。
「大層、おめかしだね。」
「ふむ。」
 と笑い捨てて少年は乱暴に二階に上るを、お貞は秋波もて追懸けつつ、
「芳ちゃん!」
「何?」
 と顧みたり。

 

秋波、

流し目のこと。

寒くなりかける頃の秋の波を、額の皺など物事の衰えるきざしにたとえていうこともある。

 

この話は案外難解な単語は少なくてこれくらい。

 

続いて膝を打った表現など。

 

(お貞、そんなに吾を治したいか)ッて、私の顔を瞻みつめるからね。何の気なしで、(はい、あなたがよくなって下さいませねば、どうしましょう、私どもは路頭に立たなければなりません。)と真実の処をいったのよ。
 さあ怒ったの、怒らないのじゃあない。(それでは手前、活計のために夫婦になったか。そんな水臭い奴とは知らなんだ。)と顔の色まで変えるから、私は弱ったの、何のじゃない、どうしようかと思ったわ。」

 

「(なぜ一所に死ぬとは言ってくれない。愛情というものは、そんな淡々しいものではない。)ッていうのさ。向うからそう出られちゃあ、こっちで何とも言いようが無いわ。
 女郎や芸妓じゃあるまいしさ、そんな殺文句が謂われるものかね。

 

結婚して即女房ほったらかして東京行ってる癖に一緒に死ねだなんて、こんな夫になってはいけませんよ。

 

この夫まじで駄目なやつなんですよ。

何かあったら子供に当たって物入れに閉じ込めたりとかね。

 

(前略)

と声に力を籠こめたりけるが、追愛の情の堪え難かりけむ、ぶるぶると身を震わし、見る見る面の色激して、突然長火鉢の上に蔽れかかり、真白き雪の腕もて、少年の頸を掻抱き、
「こんな風に。」
 とものぐるわしく、真面目になりたる少年を、惚々と打まもり、
「私の顔を覗のぞき込んじゃあ、(母様)ッて、(母様)ッて呼んでよ。」
 お貞は太く激しおれり。
「そうしてね、(父様が居ないと可いねえ。)ッて、いつでも、そう言ったわ。」

主人公が自分の死んだ子の思い出を語る場面。

子供にそんなこと代弁さすな。

直接言わせてないにしても、そう思わせてしまったのは夫婦お互いに責任があるよな。

旦那も駄目なやつだけど、このお貞も大概やべー女なんだよね。

 

しかしね、芳さん、世の中は何という無理なものだろう。ただ式三献をしたばかりで、夫だの、妻だのッて、妙なものが出来上ってさ。女の身体はまるで男のものになって、何をいわれてもはいはいッて、従わないと、イヤ、不貞腐だの、女の道を知らないのと、世間でいろんなことをいうよ。
 (中略)
 それでいて婦人はいつも下手に就いて、無理も御道理にして通さねばならないという、そんな勘定に合わないことッちゃあ、あるもんじゃない。どこかへ行こうといったって、良人がならないといえば、はい、起たてといえば、はい、寝ろといわれりゃそれも、はい、だわ。

(中略)

一体操を守れだの、良人に従えだのという、捉かなんか知らないが、そういったようなことを極めたのは、誰だと、まあ、お思いだえ。
 一遍婚礼をすりゃ疵者だの、離縁れるのは女の恥だのッて、人の身体を自由にさせないで、死ぬよりつらい思いをしても、一生嫌な者の傍についてなくッちゃあならないというのは、どういう理窟だろう、わからないじゃないかね。

鏡花の女性観です。

ヤマアラシのジレンマってあるじゃないですか。

人間もああいう風になってるんですよ。一人だと一人でいることが苦しくなり、誰かと居ればなぜか憎しみあってしまう。

これは人間の本能なのだが、だとしたらその本能に支配されてるのってダサくないですか?

ヤマアラシのジレンマ自体はトライアンドエラーで解決できる=適切な距離感を取ることが出来るわけだけど、試行錯誤によって解決策を追い求めることを辞めてしまうと苦しみにさいなまれる時間ばかりが多くなって、一緒にいることが苦痛になってしまう。

 

ではどうするか?アドラー心理学でもやればいいのではないかと僕は思います。

 

私はね、可いかい。そのつもりで聞いておくれ。私はね、いつごろからという確かなことは知らないけれど、いろんな事が重なり重なりしてね、旦那が、旦那が、どうにかして。
 死んでくれりゃいい。死んでくれりゃいい。死ねばいい。死ねばいい。
 とそう思うようになったんだよ。ああ、罪の深い、呪詛のも同一じだ。親の敵ででもあることか、人並より私を思ってくれるものを、(死んでくれりゃいい)と思うのは、どうした心得違いだろうと、自分で自分を叱ってみても、やっぱりどうしてもそう思うの。

(中略)

お貞がこの衷情に、少年は太く動かされつ。思わず暗涙を催したり。
「ああ姉様は可哀そうだねえ。僕が、僕が、僕が、どうかしてあげようから、姉さん死んじゃあ不可けないよ。」
 お貞は聞きて嬉しげに少年の手をじっと取りて、
「嬉しいねえ。何の自害なんかするもんかね、世間と、旦那として私をこんなにいじめるもの。いじめ殺されて負けちゃ卑怯よ。意気地が無いわ。可いよ、そんな心配は要らないよ。私ゃ面あてにでも、活きている。たといこの上幾十倍のつらい悲しいことがあっても、きっと堪えて死にゃあしないわ。と心強くはいってみても、死なれないのが因果なのだねえ。」

この姉様は、すんこくんがはっかいにゃに言う親愛や尊敬から来る姉さんのようなものかと思いきや、この少年はお貞に自分の実の姉(旦那にDVされて自殺している)を重ねており、話がややこしい。自分の姉と同じ髪型である銀杏返し(古くは若い娘の髪型)に結ってくれとお貞に懇願してお貞の家庭に波紋を起こしたりしている。結局最後までこの少年はお貞をお貞として見ずに、自分の姉の幻影として見ているなど、この話全員どっかしら倒錯しており、それがこの話を不気味にしている。

 

時彦はその時よりまた起たず、肺結核の患者は夏を過ぎて病勢募り、秋の末つ方に到りては、恢復の望み絶果てぬ。その間お貞が尽したる看護の深切は、実際隣人を動かすに足るものなりき。

 

この実際の使い方は副詞ですね。

ニンジャスレイヤーと同じ使い方です。訳するとActually.

 

「何、そう驚くにゃ及ばない。昨日今日にはじまったことではないが、お貞、お前は思ったより遥に恐しい女だな。あれは憎い、憎い奴だから殺したいということなら、吾も了簡のしようがあるが、(死んでくれりゃ可い。)は実に残酷だ。人を殺せば自分も死なねばならぬというまず世の中に定規があるから、我身を投出して、つまり自分が死んでかかって、そうしてその憎い奴を殺すのじゃ。誰一人生命を惜しまぬものはない、活きていたいというのが人間第一の目的じゃから、その生命を打棄ててかかるものは、もう望みを絶ったもので、こりゃ、隣れむべきものである。
 お前のはそうじゃあない。(死んでくれりゃ可い)と思うので、つまり精神的に人を殺して、何の報いも受けないで、白日青天、嫌な者が自分の思いで死んでしまった後は、それこそ自由自在の身じゃでの、仕たい三昧、一人で勝手に栄耀をして、世を愉快ろく送ろうとか、好きな芳之助と好いことをしようとか、怪しからんことを思うている、つまり希望というものがお前にあるのだ。
 人の死ぬのを祈りながら、あとあとの楽しみを思うている、そんな太い奴があるもんか。
 吾はきっと許さんぞ。
 そうそう好きなまねをお前にされて、吾も男だ、指を啣えて死にはしない。
 といつも思っていたんだが、もうこの肺病には勝たれない、いや、つまり、お前に負けたのだ。
 してみれば、お貞、お前が呪詛のろい殺すんだと、吾がそう思っても、仕方があるまい。

呪詛。

旦那の思想もご覧の通りちょっと歪んでいるのだが、しかしながらすべての人が全く理解できないものでもないだろう。

だが、各人いざ自分の中にある怒りがどのようなものであるかを見つめ直した時、その怒りがこの旦那の指摘にあたらないという人は少なかろう。

今の現代、殺してやろうとして殺す人より、それが出来ぬから他人の死を希うものが当然多いからだ。

そしてそれが遵法精神に満ちた思想であり、正しいものだとされているからだ。

 

 お貞、謝罪をしちゃあ可かんぞ。お前は何も謝罪をすることもなし、吾も別に謝罪を聞く必要も認めんじゃ。悪かったというて謝罪をすればそれで済む、謝罪を聞けば了簡すると、そんな気楽なことを思うと、吾のいうことが分るまいでな。何でもしたことには、それ相当の報酬というものが、多くもなく、少なくもなく、ちょうど可いほどあるものだと、そう思ってろ! 可いか、お貞、……お貞。」

 

いや全くそのとおりですよ。

 

旭光一射霜を払いて、水仙たちまち凜とせり。

この一文は実に鏡花。

ちょっとスムーズに出てこないですねこれは。

 

お貞はかの女が時々神経に異変を来たして、頭あたかも破るるがごとく、足はわななき、手はふるえ、満面蒼くなりながら、身火烈々身体を焼きて、恍として、茫として、ほとんど無意識に、されど深長なる意味ありて存するごとく、満身の気を眼にこめて、その瞳をも動かさで、じっと人を目詰むれば他をして身の毛をよだたすことある、その時と同一じ容体にて、目じろぎもせで、死せるがごとき時彦の顔をみまもりしが、俄然、崩折れて、ぶるぶると身震いして、飛着くごとく良人に縋すがりて、血を吐く一声夜陰を貫き、
「殺します、旦那、私はもう……」

死を願うくらいならいっそ殺せと言われたお貞の描写。やはりここでも精神の描写よりも、肉体の表現が著しいのが鏡花だ。

 

諸君より十層二十層、なお幾十層、ここに本意なき少年あり。渠は活きたるお貞よりもむしろその姉の幽霊を見んと欲して、なお且つしかするを得ざるものをや。

まじでぞっとするよこいつ。

人情物と思わせつつ、怪談話みたいにして締めるのが鏡花の趣味が出ている。

 

この話もまたすごく読みやすいんですよ。

鏡花の大好きな既婚女性の憂いみたいなのがよく描かれているので、暇なら読んでほしい。

活人形

僕が常に崇敬の念を持って愛読している作家として、泉鏡花がいる。

 

学生時代の恩師などは僕の文章について、「好きな作家三島でしょ?」などと言っていたが、それは鏡花の文体が人に見せるのに向いてないから装飾体の多様だけに留めた結果三島っぽくなっていたからだと思う。

 

僕の書く文章について、家内には「人に読ませようって気がないよね……(卒論を見て)」と言われ、十年来の友人であるはっかいにゃには「この文章君が書いたって言うんじゃなきゃ多分読まないと思いますよ(十代の時に見せた二次創作を読んで)」と言われた覚えがある。

 

確かにその自覚はあるのだが、実は僕としては非常に読者に寄り添っているつもりなんだよ??

その証拠にこのブログなんてほら、平民体でしょ!!

 

大好きな装飾体を(当社比であまり)使ってない!

他者への共感性がマチュピチュの標高より高い!!!

 

それは嘘だね。自覚してるよ。

 

それはそれとして僕は鏡花の美文体を美術だと考えている。

美術には作者の背景や思考を突き詰めたものにより作られており、美術それ自体に力がある。

しかしこの美術、芸術なるものはそれがそこにあるだけでは芸術たりえず、鑑賞者があって初めて美術、芸術の役割が果たされる。

 

優れた美はそれだけで尊いが、造り手がその造形物に込めたものを受け取る他者がいてこそその美は完成されるというのが僕の考えだ。

 

そういうわけで今日は泉鏡花の『活人形』に触れていきたい。感想です。

 

この作品は1893年に公開されたもので、有名な『夜行巡査』、『外科室』などよりも先に公開された鏡花の第二作とされている。

鏡花の文体は基本的には幽玄で人を寄せ付けない難解さがあるのだが、これはかなり読みやすい。

題材が探偵モノというのも面白い。

大衆に迎合した鏡花について、いいか悪いかを論じるのはナンセンスだ。

売れないときに書いた(自分の本来書きたいものとは違う)魂を売って書いたような、なんとか売れようとして絞り出したものを持ち出されて「らしくない」と言われてもはいそうですとしか言えないからだ。

 

そういうわけで大衆に迎合した鏡花の『活人形』の導入はこう!

 

イケイケに売れている探偵、倉瀬泰助。

左頬に三日月型の傷を持つ日本屈指の探偵だ!!

……すごい!ティーンが読む小説みたい!!!

本郷の病院に半死半生で飛び込んできた病人が「毒を盛られた」とか「想い人が叔父に軟禁されており、今も、その毒牙にかからんとしている!!一緒に逃げようと誘ったときも先祖伝来の土地を守るためと一緒に逃げることもできなかった。なんとかして想い人を救いたい!アッ!毒が効いてきた!これは明日には死にそう!!!」

などとわめき、倉瀬は「じゃあ明日までにその想い人を救い出してやるぜ!」という話。

 

多分その想い人もうとっくに堕ちてるよ。おれはくわしいんだ。

絶対これ体だけは許しても心まではとか言ってるうちに心底まで支配されてるやつだよ。

「俺この戦いが終わったら結婚するんだ」と同じくらい使い古されてる常套句、フランス語でいうところのクリシェというやつ。

 

鏡花は辞書を引きながらでないと読めないとされているが、それはこの平易な作品でも変わりない。

以下、今回調べたものを列挙する。

 

実に容易ならぬ襤褸が出た。少しでも脱心が最後、諸共に笠の台が危ないぞ。

 

人間の頭のこと。笠を乗せる台を人間の頭に見立てて、命取りになるくらいのニュアンス。

 

こは高田駄平とて、横浜に住める高利貸にて、得三とは同気相集る別懇の間柄なれば、非義非道をもって有名く、人の活血を火吸器(すいふくべ)と渾名のある男なり。

 

ふくべっていうのは瓢箪のことなんだけど、このすいふくべっていうのはポイズンリムーバのことです。

吸角などともいう。

 

なんのかのと、体の可いことを言うが、婆々と馴合ってする仕事に極まった。誰だと思う、ええ、つがもねえ、浜で火吸器という高田駄平だ。そんな拙策を喰う者か。

 

馬鹿馬鹿しい。

 

全体虫が気に喰わぬ腸断割って出してやる。と刀引抜き逆手に取りぬ。
 夜は正に三更万籟死して、天地は悪魔の独有たり。

 

三更はいわゆる子の刻、午前零時から二時間ほどの間までの時間。

万籟は自然物が風に吹かれて立てる音。

木々が風に吹かれて立てるような音すらもしない真夜中、めっちゃ怖かったくらいの意味でとってよかろう。

 

続きまして膝を打った表現など。

 

「ようし、白状しなけりゃこうするぞ。と懐中より装弾(たまごめ)したる短銃(ピストル)を取出いだし、「打殺(ぶちころ)すが可いか。

 

これ見て気づいたんですけど、「ぶっ殺す」の「ぶっ」は「打つ」から来ていて、ちょっと勢いをつけて表現するときの、いわば形容詞なんですよね。

万葉集』にある「田子の浦ゆ うち出でてみれば 真白にそ 不尽の高嶺に 雪は降りける」の句にある「うち」と用法としては一緒なんですよ。そう考えてみれば「ぶっ殺す」という表現も古語から正当に進化して今もなお使われている文化的な表現であると言うこともできるのではないだろうか。

 

 

肩に手を懸け引起し、移ろい果てたる花の色、悩める風情を打視め、「どうだ、切ないか。永い年月よく辛抱をした。えらい者だ。感心な女だ。その性根にすっかり惚れた。柔順に抱かれて寝る気は無いか。

「殺す」と決めたあとのおっさんの科白なのだが、その後も希望をもたせようとするところ、非常にいいね。そして言うまでもなく下枝(ヒロイン)の拷問されてやつれ切った姿を移ろい果てたる花の色というのは実に雅な表現だ。

 

屠所の羊のとぼとぼと、廊下伝いに歩は一歩、死地に近寄る哀れさよ。蜉蝣の命、朝の露、そも果敢しといわば言え、身に比べなば何かあらむ。

 

鏡花らしい一文でよい。

 

鏡花の文章において言えば、話の構成や内容の凄まじさ、発想なんかは別段優れているとは思わない。

たとえば、薬草取りに行ってなんか怖かった話とか、探偵が華麗に事件解決!とか、ボンズマヨイガに迷い込んだ話とか、好きな女にメス入れたあと自分も死ぬ話とか。最後のやつだけちょっといいかもしれん。

僕が言いたいのは、題材が特に優れているわけではないということです。キャラ立ては毎回あんまり強くないし、この活人形はオチも弱い。

人間心理の機微よりは、目で見たもの、世界の美しさだとか、現実世界に肉薄して存在する怪奇なる世界への憧れからくる曖昧な状態の恐怖を描くのがうまい。

鏡花の凄まじさは、執念とも言える美文への執着にある。

言ってることは大したことではないのだが、(きもの きれい とか 部屋のしつらえが りっぱなど)そういう大したことないものが、鏡花にとってはもっと細かく世界が見えている。

鏡花がどのように世界を見ているかということに注目して作品を読み、鏡花の視点を真似て世界を見れば、その美しさに驚くことになる。

 

次は化銀杏でも読むか。

 

生の苦痛

生きる事と苦しむことは表裏が一体のものであって、分離けることの出来ないものである。

人生の一つの苦しみが取り除かれた時、また新たな苦しみを見つけてしまうのが人間という生き物なのだ。

あたら苦しみのない時にこそ、いつ苦しみに襲われるか判らないものだからなにもないところに苦痛を見出してしまう。

 

この苦しみの根源は果たしてどこにあるものか。

最古の経典の一つでもある『スッタニパータ』などでも述べられているように、仏教哲学においてはこれを「三不善根」と呼ぶ。

即ち貪・瞋・癡の三つである。

貪は必要以上に求める心を言い、

瞋は怒ること、憎むことを言う。

癡は愚かなことを言う。

癡について仏の言う真理に気づかないものを言うとされることもあるが、僕は仏教徒じゃないのでこれについては賛同しない。僕はこの項目を自分の愚かさに気付かず改めようとしないことであると捉えている。

 

この三不全根は別名三毒ともいい、この三毒は更に十悪に分離けられる。

この十悪を避けるためにどのようにすればよいかをまとめたものが、真言宗系の戒律である「十善戒」である。

源流を同じくする天台宗系では似たような教えに「十重禁戒」などというのがあるが、はっきり言ってこちらの程度は真言宗系と比較して現代社会の役には立たない普遍性の低い形骸化してカビの生えた宗教者の自慰行為みたいな戒律なので、どうでもいい。

 

「十善戒」においては、十悪に陥らないように次の戒律を守れとしている。

 

・不殺生 故意に生き物を殺さない。
・不偸盗 与えられていないものを自分のものとしない。
・不邪淫 不倫など道徳に外れた関係を持たない。
・不妄語 嘘をつかない。
・不綺語 中身の無い言葉を話さない。
・不悪口 乱暴な言葉を使わない。
・不両舌 他人を仲違いさせるようなことを言わない。
・不慳貪 激しい欲をいだかない。
・不瞋恚 激しい怒りをいだかない。
・不邪見(因果の道理を無視した)誤った見解を持たない。

 

十重禁戒だかじゅじゅうカルビだか言うやつよりはまともな内容なのだが、何分すべてがすべて現代に適用できるかというと、僕はそうではないと思う。

少なくとも、仏教の戒律を守ることで宗教への帰属意識を強くして救済されているという実感に浸ることが幸せな人間以外は、この全てを守ることに対して意味はない。

家の中に害虫が出たら僕は殺して捨てるし、中身のない言葉ってかぜはくの類語の一つであるからだ。

哲学というのは思想として普遍的に人生に役に立つものであるべきだと言うのが僕の考えだ。だからこの「十善戒」について言えば、今の時代でもそれなりに使えるものだという評価をしている。

僕は宗教批判がライフワークなのだが、宗教というのは原初哲学と密接に結びついており、その中には今日においても人生の助けになるものが少なくない。

しかしその宗教の中の哲学を宗教人が理解できてない場合、どんどん形骸化してどうしようもない見るに堪えない自慰行為になるので各位注意されたし。

そうした中身のない宗教は滅ぼすに限る。

 

また、苦しみについて考えるなら、四諦という思想にも目を向けねばならない。

まず四諦のうちの第一に、苦諦というものがある。

これは生は苦とともにあることを認めるというもので、仏陀が述べた真理の一つである。

人間存在は苦しみの根源を本質的に内包した生き物であり、人間は常に苦しみとともに生きている。

仏陀が言うには、物事にはすべて原因があって、その原因が結果に繋がるとしている(因果)。この思想は仏教以前のバラモン教にも存在しているが、僕はこの思想を仏教に取り入れたのはリアリストの仏陀らしいと捉えている。

ただ、現代においては「いいことしたらいい結果がある」みたいに捉えられているが、仏陀が言うにはそうではない。今生の善因が来世の善果になるかもしれないと言う。

僕個人は輪廻転生とか全く信じてないので、それについてはノーコメントなのだが、少なくとも仏陀のいう物事には全て原因があるとする思想には大いに賛同する。

 

また、これまで苦しみの原因が三悪(三不善根)にあり、それらに支配されないための対処として「十善戒」を挙げた。

僕はこの苦の原因が執着から来る怒りや欲求にあるとする姿勢にも大いに共感しており、賛同する。

それ故に「執着を断つ」ことを目的とする宗教者が多いのだが、僕は執着を断つことと執着をしないということは全く別だと考えている。

すべての執着が悪なのではなく、苦に近づく執着こそが悪なのだ。

はたして何が自分の苦に繋がる執着なのか。それを考えて、必要であるならば断つべきだと考えている。

 

しかし言うまでもないことだが、執着は幸福をも生む。あらゆる執着をすべて手放していけば、自分の意志というもののない植物のような人間になる。自分が何をもって自分であるかという証明は、自分自身の行動や思想、所有物、人間との関わり、人生の歩み方で決まると考えている。

しかしすべての執着を断ってしまえば、一切物のないワンルームマンションで独居老人孤独死という最後が待っているだけで、僕はその最後は自己の証明の道程で真理を追うことを投げ出した愚か者(これも三悪の一つ)、戒律やクリシェに飲まれてしまった狂信ゆえの魔道であると思っている。

 

執着を断つこと自体は間違いではないが、どの執着を断つか選ぶだけの知恵を持たねば必要な執着まで手放してしまうことになりかねない。

それは僕の思う「苦痛からの遠ざかり方」とは違う。

生活の中に何かしら新しいものを取り入れる試み -ゴルゴンゾーラDOP-

この世は美しいもの、素晴らしいものに満ちている。

我々は身の回りによいと思うものを取り入れながら生きている。

それは自分の好みにあうものだったり、見た目が美しいものだったり、希少なものだったり、効率がいいものだったりする。

何がしかの判断基準によって、我々は何かを選びとって自分の生活、人生に加えて生きていく。

本来ならばそれは、身の回りに自分の選んだよいと思うものばかりが集まっていき、自分を取り巻く世界はよりよくなっていく。

 

だが人間は飽きる。

どれほど美しい景色であっても、美食であっても、続いていると飽きる。

この飽きこそが全く人生において恐るべき感情であって、本来自分が素晴らしいと思った珠玉のものが、まるで路傍の石片のごとくに見えてしまう。

 

なので、僕は常に自分の周りに良いと思うものを起きつつ、それを更新していきたいと思っている。

そしてまた同時に、変わっていくもの、代替わりするものがありつつも、常に変わらず僕の周りにあるものを作っていきたい。

 

新しいものを試していくことで、様々な知見が得られるはずだ。

そしてその知見は人生を豊かにし、次の僕の選択をより良いものへと近づけてくれるはずだ。

 

そんな訳で今回試してみたのはこちら。

 


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コストコで買ったゴルゴンゾーラ・ピカンテDOPです。

 

ぼくブルーチーズだいすき!

ただこの世の中には安くてうまいブルーチーズなどというものは存在せず、非常に困っていた。

こいつに出会うまではダナブルーばっかり食べていた。

 

一応解説しておくと、ゴルゴンゾーラDOPはイタリアのロンバルディアからピエモンテ州にかかる地域で作られる原産地呼称付き(神戸ビーフ近江牛夕張メロン八丁味噌みたいなもん)チーズだ。

牛乳の固形物と青カビを重ねて作るチーズで、独特の刺激臭とうまみがある。

アオカビの生育に塩分が必要なため、塩気も結構ある。

ダナブルーはデンマークで作られるゴルゴンゾーラとかロックフォール(フランスのDOPチーズ)のパチモ……インスピレーションを受けて作られた本家よりちょっとお安めのチーズだ。

 

そもそもカビを人間が食って大丈夫なのかという話なのだが、アオカビの大部分はいわゆるカビ毒(マイコトキシン)を出さないため、適切な環境下のアオカビは体に入れても大丈夫なのだ。

だからといって放置したパンにアオカビがついてるやつを食おうとするのはやめたまえ。

アオカビは空気中に沢山いるのでありとあらゆるものに付くが、常温で放置されたものに目に見えるくらいアオカビが繁殖していれば、アオカビ以外のカビも相当に繁殖している。

そいつらはカビ毒があるし、食うとダメージを受けるぞ。

ものを拾って食っても大丈夫なのは特殊な訓練(普段から床に落ちたピーナッツを食ってたり虫のついたレタスを生で頬張ったりするようなやつ)を受けたやつだけだ!

 

そんなこんなで乳成分の固形物に直接アオカビを注入してつくる場合の青カビチーズは人間の体にとって全く問題がない!どんどん食え!!

 

ゴルゴンゾーラについては味がピカンテとドルチェの二種類がある。

ピカンテが辛口、ドルチェが比較的食べやすいという感じ。

今回買ったこいつはピカンテ。

僕は断然ピカンテが好きです。

 

ブルーチーズは、臭い部類のチーズに入る。

食べてる時もそうだが、食べ終わった後も口から刺激臭がするので、気にする人は気をつけよ。

僕は全く気にしませんが……(美青年なので多少口臭いくらいはむしろよいとされている)。

アオカビがもたらす独特の香りは他にかわりのないものだ。

ダナブルーが苦手な家内も、このゴルゴンゾーラは割と好みだったらしい。

酒のつまみにいいね。

酒に合わせるなら二通りのアプローチがある。

極甘のワインに合わせるか、同郷であるイタリアピエモンテ州の赤ワインに合わせるかの選択肢が一般的であろう。

やったことないけど濁り酒とかと合わせたらもしかしたら面白いかもしれん。

 

ここは完全に好みの問題だが、ブルーチーズを食べやすくするためにハチミツをぶちまけたり、デザートワインと合わせるスタイルは、あまり僕の好みではない。

ブルーチーズの良さである刺激的で強烈なキャラクターを損なってしまう。

仏陀リクルートスーツを着せて就活させるようなものだと思う。

 

それが好きな人もいるのでダメだと言うわけではないが、くっせえブルーをタニックで田舎臭いネッビオーロや古風なバルベラと合わせながら摘むのがやはりよい。

何故か?味の濃さで脳がバグり、やがて陶酔へと至るからだ。

僕にとってブルーチーズは魔境へと誘う食べ物で、神秘的飲酒体験の道行を共にする信頼出来る友でもあるからだ。

 

そうは言うがピエモンテのワインは安くて美味いのが少ない。

ので、もう少し手に取りやすく受け入れられやすい組み合わせとしては果実味が強く多少タンニン、渋みのある赤と合わせるのもよし、なめし革のニュアンスのあるワイルドなワインと合わせるのもよし、困ったら地中海の凝縮感ある赤と合わせておけば大きく外れることはないだろう。

 

ブルーチーズは放置しとくとどんどん臭くなる。

当然アオカビは生きているので、適切な環境下ではどんどん育っていく。

チーズ界ではこれを熟成と呼ぶ。

発酵食品にカビが繁殖していくことを踏まえて敢えて言うが、熟成したアオカビチーズはマジでうまい。

 

ただ人によって許容量はある。

僕は全然いけるけど人によっては臭すぎて無理という人もいるだろう。

 

そういう時はブルーチーズをそのままフライパンに突っ込んでソースにするとよい。


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香りが他の食材と調和し、超いい感じになるであろう。

キノコとの相性は最高!

 

ただ、普通に食える状態のブルーチーズを少々ソースにしたとしても、味にパンチが足りない感が出る。

ソースにするなら十分熟成してくっせ!!!!!みたいな状態のやつにするとよい。

なあに、火を通せば食える。

なおレシピは特にない。ブルーチーズを熱すればそれはもうブルーチーズソースだ。

ブルーチーズソースにも様々な流派があり、生クリームを入れたり牛乳を入れたりする派閥がある。

別段僕はどの派閥に属しているわけでもないのだが、生クリームを使うのは財布に優しくないしそんなに味がパキッとする(かぜはくの国の言葉で味が濃くなって脳に響く状態を指す)わけでもないので省く。牛乳はあってもよい。

より味をパキッとさせたいなら、塩の代わりにパルメザンを入れるとよろしい。パルメザンは何にかけてもうまいし、生クリームと比較すると費用対効果が大きい。

調理による旨味ビリティも高くなる。

 

加えて言うとゴルゴンゾーラは山のチーズであるため、山の食材と相性がよい。キノコを限界までいれてよい。

マッシュルームはもちろん舞茸もよい。春先であればタケノコも面白いだろう。

 

皆さんもブルーチーズを食べましょう。