かぜはく電脳曼荼羅

玄秘学、食文化、ゲーム、生と死に非常な関心があります。

天、地、人、我、君

かねてより社会人になってからの己について、その精彩の欠如、低迷について頭を悩ませていた。

大晦日の路線バス、それも最終バスなどは人なぞ乗らぬし、思うまま思考に浸ることが出来たので、今日得られた一つの答えについてこれまでの振り返りと共に書く。

 

そもそもの思考の始まりは、ファビュラスという言葉だった。これは最近よく耳にする叶姉妹の独特の言語センスの一節なのだが、僕はこのファビュラスという単語に一つの思い出があった。

そこで思い起こされたのが、「ファビュラス」というギルドと、そのギルドマスター、ミリッシュの事であった。彼女に関しては語るのが惜しく、また安易に語るべきでないその思い出より、僕は我が主上にして全能の超人的存在、くくさまとミリッシュの関わりについて考えた。

決して二人の関係は良好ではなかった。くくさまの親友とミリッシュは共に鍛冶スキルにおいて、世界一を争い合う関係であって、くくさまはそんなミリッシュの作った武器を、市場での絶対数を減らすために買い上げては焼却したりしていた。

 

なぜくくさまはあんなことをしたのだろう?と考えた。

僕は、くくさまが超人だからだという答えに達した。

 

ここで、僕の話をしたい。ここで僕の話をいれることによって、まず間違いなく混乱を生むのだが、今回は僕の思考の順序に従って書きたい。

 

僕は高校生のとき大悟した悟りは、「常に自分の形を見定め、欠けている点を補うこと。またその方法について模索すること」だった。僕の中のイメージで、凹みや傷、ひび割れなどを触って確かめて、綺麗な珠にするという感覚があった。僕はこれを珠玉の悟りと呼んでいた。

 

その後もいろいろと悟りはあったのだが、今書くべきなのは、超人の悟りについてであろう。

これは前述の珠玉の悟りの向かう方向について考えた時、高校生の僕は漠然と、「良い方向」へ改善していくように考えていた。

しかしその「良い方向」とは何か?大学生の時に考えて辿り着いたのが、「既存のよいとされている方向ではなく、自分で導き出した、自分自身の思う良い方向」であった。後からニーチェ読んだらまんまそれが「超人」の定義であったので、これを超人の悟りと呼ぶ。

 

で、この自分自身の思う良い方向というのは、人に認められないことがよくある。言ってしまえば大衆迎合からの離脱と放棄であり、良い方向に向かうために尊重される事柄が、大多数の正義ではないからだ。自分自身の正義だからだ。

 

僕の場合は、自分や、自分のまわりにある大切にしたい人達などが、僕の正義にあたる。

 

おそらくくくさまもそうだった。

僕達は超人だからそうなる。ただその点において、現在の僕とくくさまが異なるのは、その超人の精神を体現しているかどうかだ。

 

超人の悟りを踏まえての僕の座右の銘がある。

「不愧天地」だ。僕は僕自身の正義に則った行いを、人にどのように言われようがそれを恥じたりしない。そういう意味だ。

 

詳しく書くことは避けるが、今僕が苦しんでいるのは、大多数の正義に押しつぶされて、自分自身の正義を貫けぬことだ。恥じているのだ。

凡愚の、取るに足らぬ利己的な的外れの正義に屈しているのだ。

人間というものに抱いてた理想と、社会に出てから見た現実との乖離、それが最大の苦悩なのだ、と考えた。

 

しかしそう考えると、一つの疑問が浮かび上がった。

僕が恥じているのは、本当に「天地」かということである。

 

不愧天地の元となった言葉に、我独慙天地というのがある。

これは、ほかの人間がどのように悪辣で、蒙昧なることに恥じ入ることをしなくても、自分ひとりは天地に恥じて正しい行いをするというものだ。

天地の他に並べられるものは幾つかあるが、人というのはそのうちでも頻出する部類のファクターである。

 

なぜ僕が不愧天地などと言い出したかといえば、相手が天地とかいうでかいもんであろうと、恥じるのだせえじゃんと思ったからである。

しかし天地とは、僕が恥じているものはそんなものだろうか?この巨大なだけで、愚鈍な、白痴じみた化け物が。僕が恥じているのはもっと別の、理屈の通じぬ、例えば――人ではないのか?

 

例え超人であろうと、常に超人であることを体現することは難しい。自分自身の正義を体現することは、例えばくくさまの行いのように、人に理解されぬこともある。

しかし超人が、その正義に則って生きるなら、自分の正義にあだなすものは常に存在する。それどころか、自らの正義を持たぬものが、稚拙な大多数の正義のもとに立ちはだかることもある。

我独り天地に慙とは、自分とはまた別の正義だけでなく、そのような凡百の、民主主義の暴力の担い手たちが如何に自分の正義に異を唱えようと、自らの正義を確認し、または疑いの目を向けて、常に正義を内包する自分自身を更新し続けていく自戒の言葉ではないかと思う。

僕は、社会という妖怪に取り憑かれて、その自戒を止めてしまっていたのだ。

 

そういう結論に辿り着いたところで歳が明け、酒がまわり、良い感じとなったので、諸君あけましておめでとうという感じにして

このあたりでおやすみしたいと思う。