やるぞ!!アリストテレス式ダイエット
ウエストがいつの間にか80越えてた。体重はあまり増えていないのだが……。
すなわちこれは筋肉が落ちて脂肪が増えたことを意味する。これは僕としては度し難い事態である。
そういうわけでダイエットを決意したのであった。
しかし真面目にトレーニングをしていたのなんて10年も前のことで、その頃よりトレーニング理論は格段に進歩していて、僕の持っている知識などは既に最新の流行からすると竹槍的存在になっているであろう。
しかし僕には余人のトレーニーにはない武器がある。
哲学だ。哲学をダイエットに持ち込むのだ。
最初に言っておくが、ダイエットに精神論を持ち込んだ奴は挫折するぞ!!!!!!!!!
では如何にして哲学をダイエットに持ち込むのか?ここでいうダイエットに関する哲学とは、
誰でも絶対に痩せる!!一週間で結果が出るトレーニングメソッド
とか、
楽して部分ヤセ♡肌見せも怖くない美モテダイエット♡♡♡♡
とか、
米や麦などの穀類の食を断ち、水や木の実などで命を繋ぐ。
みたいなのではなく、
『ニコマコス倫理学』とは、古代ギリシャの哲学者アリストテレスが倫理と幸福について書き留めた作品群を元に息子であるニコマコスが編纂したものだ。
倫理学の濫觴として知られるソクラテス、プラトンらに次いで古く、古典的価値も認められる他、こんにちでも倫理学の初歩として学ぶ価値のある書物である。
まず、倫理とはなんであるか。
あるいは道徳哲学とも呼ばれる倫理学は、言わば行動の規範となる道徳について考えを深める学問であると言えよう。
素朴に言うならば、何を「善」とするかを追求する学問である。
まるでかぜはくに向いてなさそうな学問であるとお思いかもしれない。しかしながらこの倫理学、非常に多様性に満ちている。
何を「善」とするかについて、人々は様々な答えを持っている。
例えば既に名の挙がったソクラテス、プラトンなどは「徳」を「善」とした。
「徳」、なんやねんという話はまあいいじゃないですか。長くなるし。
仏教では釈迦以後六師外道とかいう人達が出てきて好き勝手これがいいと述べているし、中国の儒家などは「仁」こそ「善」であると言う。
実利(ベンサム)こそ「善」であると言う学派もあれば、いや、快楽(エピクロス)こそ、幸福(アリストテレス)こそ、利己(ホッブズ)こそ、利他(最近の流行り)こそ、幸福には「善」なんかないよ派(カント)などと皆好き勝手に「善」について述べる。
一方で善とか悪とか言ってる奴全員クソ(ニーチェ)学派もあったり、この際はっきり言っておくが(聖書でよくあるフレーズ)、何が「善」かは個々人の考えに任されている。
その何を「善」とするかという問題に近付くのが倫理学なのだ。
皆が自分の「善」を声高に主張するが、全員が一貫しているのは「どう生きるのがいいか」を論じていることだ。
「どう生きればいいのか」考えた時、人は皆倫理学者になる。
それが例え誰かに批判されようとも、批判されるのが哲学ですからね。
異論は認めるが、僕の倫理学に対するスタンスはこう!!!
あと僕の考えに一番近いのはニーチェ!
善悪とかクソ。そんなものがあるから人間は幸福を享受できないのだ。
おい!やっぱ倫理向いてねえじゃねえか!!!!
話をアリストテレス式ダイエットに戻すか……。(まあ戻らないんだけどね)
トレーニングっていまいち続かないじゃないですか。
世の中には誘惑が沢山あって、ゲームもしなきゃいけないし本も読まなきゃいけないしうまい飯も食わなきゃいけないしうまい酒もキメなきゃいけない。
僕みたいなマッスルエリートはちょっと筋トレしたらすぐ元に戻るだろみたいな気持ちがあって、ついついトレーニングをせずに遊興にかまけてしまう。
俗にいうところの、「悪いと判っていつつもやめられない」という状況なわけ。
いや辞めれるよ???すぐ辞めれるよ??もう五回くらい禁酒に成功してるしな??????
この状況を、アリストテレス的には無抑制(アクラシア)と呼ぶ。反対語に抑制がある。
この辺判りやすくまとめると、以下のような形となる。
1.節制
筋トレ超楽しいし今日も筋トレ出来て最高に幸せ!海外から栄養を効率的に吸収するヤバい薬を個人輸入して今日もボディメイクに勤しむぜ!!というすんこくんみたいな状態。
2.抑制
昼飯食った後にちょっと小腹が空いたけどおやつを買って食べずに筋トレもしました!えらい!
3.無抑制
昼飯食った後にちょっと小腹が空いたからおやつを買って食べました!!やらなきゃよかったな……。
4.放埓
昼飯食った後にちょっと小腹が空いたからおやつを買って食べました!!明日は昼飯の後にラーメン食うぜ!!!!!
もっと詳しく見ていこう。
なぜこのように四類型に別れるのか。
アリストテレスは、大前提が対立を起こすからだと述べている。
判る言葉で言えアホこれだから哲学者はと思うよね。ごもっともです。
前提1 小腹が空いたので飯食ったけどラーメンを食べたいという気持ち
VS
前提2 メシ食った後にラーメンを食う奴はバカ
このように前提がぶつかりあった場合、 二つの結果がある。
結果1 ラーメン食いたかったけど飯食った後にラーメン食うやつはバカだから我慢した!(抑制)
結果2 飯食った後にいかんとは思いつつもラーメン食った!我慢が出来んかった!反省している!(無抑制)
じゃ節制と放埓はどうなんだという話になるが、その二つは前提がぶつからなかった場合にあたる。
その場合の結果はこう!
結果1 摂取カロリーを計算して筋肉を育てることに幸福を見出しているので、ラーメンを食うという選択肢自体がない。(節制)
結果2 腹が減ったら飯を食うのは人間として当たり前なので、ラーメンを食わないという選択肢自体がない。(放埓)
アリストテレスは抑制より節制の方がいいと言っているんだが、それは何故かというと苦しみがないから。
これはどういうことかというと、
飯食った後にラーメンが食いたい!でも我慢する!(苦しみを伴う)結局食わなかった!摂取カロリーもコントロールしてトレーニングも成功!(幸福)
よりも、
飯食った!(なんの苦しみもない)摂取カロリーもコントロールしてトレーニングも成功!(幸福)
のほうがよいということです。
そら判るよ?
トレーニングとダイエットについては抑制や節制の状態にあることが僕は好ましいと思う。
なら苦しみのない節制の状態にある方が確かによい。まあ判る。
だが何においても節制が放埒に勝るとは必ずしもいえないのではないかと思う。
放埓だってなんの苦しみもないじゃないですか。僕は当然ながら無抑制よりも放埓の方が上だと思う(苦しみがないから)し、抑制より放埓の方が上だと思う(苦しみがないから)。
節制と放埓の違いは前提条件を何にするかの違いにしか過ぎず、どの選択が節制になって放埓になるかというのは簡単には言えないと思うな。
放埒に思える選択が人生に於いて大きな意義を持つことも有り得るだろうし、ここまで言っておいてアレなんだけど節制、放埓のカテゴライズはその場で出来るものではない。
人間は哲学する事が出来るので、何が自分にとっての幸福であるかは十分に考える必要がある。
ダイエット中にフレンチフルコースのタダ飯チケットが当たったとして、ダイエットに重きを置くなら当然フレンチフルコースは食べるべきではないのだが、フレンチフルコースは美味いだけではなく料理における発見であるとか、経験、知見に繋がる幸福でもある。その幸福を得ることをこの場合節制の選択肢を採った場合は放棄することになる。
機会損失ですよ。
常に節制を選び続けることは人生全体の幸福の総量を減らすことに繋がる。
幸福を大前提に置くなら、節制、放埒に拘泥せず、常に自分の幸福に繋がる選択について考えねばならない。
僕はそれこそが哲学だと思う。
またニーチェしてしまった。
そんなわけでアリストテレス式を取り入れるとか言っておきながら最後にはアリストテレスの論をこき下ろして批判したわけだが、僕としてはアリストテレスはやはり偉大な哲学者であると考えている。
まずアリストテレスは幸福主義の立場であって(ギリシャ系哲学者はだいたいそう)、最高の善を「幸福」であると述べている。
ここが僕としてはアリストテレスを評価してる非常に大きい点なんだよな。
僕の哲学は自分と自分の周りの幸福の為にあるから、(それが善であるかどうかはともかく)、幸福が最大最上の目的であり命題なのだ。
アリストテレスは幸福について、理性の活動の完成によって実現されるものであるとしているが、それについて僕は諸手を挙げて賛成する。
幸福に理性は必要だ。しかし理性の活動の完成は欲望の解放や暴力的な快楽の追求も踏まえてのものであると考えている。
そんなわけでアリストテレスに倣い、節制の精神を持ってカロリーカットを心がけたりしよう。もちろんトレーニングもするぞ。
根が放埓なのでどうなるか判りませんが……。
学生時代、酔って恩師に「僕の戒名つけてくださいよ!!!」って絡んだ時、「放埓居士」っていう戒名貰ったくらいですからね。