かぜはく電脳曼荼羅

玄秘学、食文化、ゲーム、生と死に非常な関心があります。

生の苦痛

生きる事と苦しむことは表裏が一体のものであって、分離けることの出来ないものである。

人生の一つの苦しみが取り除かれた時、また新たな苦しみを見つけてしまうのが人間という生き物なのだ。

あたら苦しみのない時にこそ、いつ苦しみに襲われるか判らないものだからなにもないところに苦痛を見出してしまう。

 

この苦しみの根源は果たしてどこにあるものか。

最古の経典の一つでもある『スッタニパータ』などでも述べられているように、仏教哲学においてはこれを「三不善根」と呼ぶ。

即ち貪・瞋・癡の三つである。

貪は必要以上に求める心を言い、

瞋は怒ること、憎むことを言う。

癡は愚かなことを言う。

癡について仏の言う真理に気づかないものを言うとされることもあるが、僕は仏教徒じゃないのでこれについては賛同しない。僕はこの項目を自分の愚かさに気付かず改めようとしないことであると捉えている。

 

この三不全根は別名三毒ともいい、この三毒は更に十悪に分離けられる。

この十悪を避けるためにどのようにすればよいかをまとめたものが、真言宗系の戒律である「十善戒」である。

源流を同じくする天台宗系では似たような教えに「十重禁戒」などというのがあるが、はっきり言ってこちらの程度は真言宗系と比較して現代社会の役には立たない普遍性の低い形骸化してカビの生えた宗教者の自慰行為みたいな戒律なので、どうでもいい。

 

「十善戒」においては、十悪に陥らないように次の戒律を守れとしている。

 

・不殺生 故意に生き物を殺さない。
・不偸盗 与えられていないものを自分のものとしない。
・不邪淫 不倫など道徳に外れた関係を持たない。
・不妄語 嘘をつかない。
・不綺語 中身の無い言葉を話さない。
・不悪口 乱暴な言葉を使わない。
・不両舌 他人を仲違いさせるようなことを言わない。
・不慳貪 激しい欲をいだかない。
・不瞋恚 激しい怒りをいだかない。
・不邪見(因果の道理を無視した)誤った見解を持たない。

 

十重禁戒だかじゅじゅうカルビだか言うやつよりはまともな内容なのだが、何分すべてがすべて現代に適用できるかというと、僕はそうではないと思う。

少なくとも、仏教の戒律を守ることで宗教への帰属意識を強くして救済されているという実感に浸ることが幸せな人間以外は、この全てを守ることに対して意味はない。

家の中に害虫が出たら僕は殺して捨てるし、中身のない言葉ってかぜはくの類語の一つであるからだ。

哲学というのは思想として普遍的に人生に役に立つものであるべきだと言うのが僕の考えだ。だからこの「十善戒」について言えば、今の時代でもそれなりに使えるものだという評価をしている。

僕は宗教批判がライフワークなのだが、宗教というのは原初哲学と密接に結びついており、その中には今日においても人生の助けになるものが少なくない。

しかしその宗教の中の哲学を宗教人が理解できてない場合、どんどん形骸化してどうしようもない見るに堪えない自慰行為になるので各位注意されたし。

そうした中身のない宗教は滅ぼすに限る。

 

また、苦しみについて考えるなら、四諦という思想にも目を向けねばならない。

まず四諦のうちの第一に、苦諦というものがある。

これは生は苦とともにあることを認めるというもので、仏陀が述べた真理の一つである。

人間存在は苦しみの根源を本質的に内包した生き物であり、人間は常に苦しみとともに生きている。

仏陀が言うには、物事にはすべて原因があって、その原因が結果に繋がるとしている(因果)。この思想は仏教以前のバラモン教にも存在しているが、僕はこの思想を仏教に取り入れたのはリアリストの仏陀らしいと捉えている。

ただ、現代においては「いいことしたらいい結果がある」みたいに捉えられているが、仏陀が言うにはそうではない。今生の善因が来世の善果になるかもしれないと言う。

僕個人は輪廻転生とか全く信じてないので、それについてはノーコメントなのだが、少なくとも仏陀のいう物事には全て原因があるとする思想には大いに賛同する。

 

また、これまで苦しみの原因が三悪(三不善根)にあり、それらに支配されないための対処として「十善戒」を挙げた。

僕はこの苦の原因が執着から来る怒りや欲求にあるとする姿勢にも大いに共感しており、賛同する。

それ故に「執着を断つ」ことを目的とする宗教者が多いのだが、僕は執着を断つことと執着をしないということは全く別だと考えている。

すべての執着が悪なのではなく、苦に近づく執着こそが悪なのだ。

はたして何が自分の苦に繋がる執着なのか。それを考えて、必要であるならば断つべきだと考えている。

 

しかし言うまでもないことだが、執着は幸福をも生む。あらゆる執着をすべて手放していけば、自分の意志というもののない植物のような人間になる。自分が何をもって自分であるかという証明は、自分自身の行動や思想、所有物、人間との関わり、人生の歩み方で決まると考えている。

しかしすべての執着を断ってしまえば、一切物のないワンルームマンションで独居老人孤独死という最後が待っているだけで、僕はその最後は自己の証明の道程で真理を追うことを投げ出した愚か者(これも三悪の一つ)、戒律やクリシェに飲まれてしまった狂信ゆえの魔道であると思っている。

 

執着を断つこと自体は間違いではないが、どの執着を断つか選ぶだけの知恵を持たねば必要な執着まで手放してしまうことになりかねない。

それは僕の思う「苦痛からの遠ざかり方」とは違う。