かぜはく電脳曼荼羅

玄秘学、食文化、ゲーム、生と死に非常な関心があります。

活人形

僕が常に崇敬の念を持って愛読している作家として、泉鏡花がいる。

 

学生時代の恩師などは僕の文章について、「好きな作家三島でしょ?」などと言っていたが、それは鏡花の文体が人に見せるのに向いてないから装飾体の多様だけに留めた結果三島っぽくなっていたからだと思う。

 

僕の書く文章について、家内には「人に読ませようって気がないよね……(卒論を見て)」と言われ、十年来の友人であるはっかいにゃには「この文章君が書いたって言うんじゃなきゃ多分読まないと思いますよ(十代の時に見せた二次創作を読んで)」と言われた覚えがある。

 

確かにその自覚はあるのだが、実は僕としては非常に読者に寄り添っているつもりなんだよ??

その証拠にこのブログなんてほら、平民体でしょ!!

 

大好きな装飾体を(当社比であまり)使ってない!

他者への共感性がマチュピチュの標高より高い!!!

 

それは嘘だね。自覚してるよ。

 

それはそれとして僕は鏡花の美文体を美術だと考えている。

美術には作者の背景や思考を突き詰めたものにより作られており、美術それ自体に力がある。

しかしこの美術、芸術なるものはそれがそこにあるだけでは芸術たりえず、鑑賞者があって初めて美術、芸術の役割が果たされる。

 

優れた美はそれだけで尊いが、造り手がその造形物に込めたものを受け取る他者がいてこそその美は完成されるというのが僕の考えだ。

 

そういうわけで今日は泉鏡花の『活人形』に触れていきたい。感想です。

 

この作品は1893年に公開されたもので、有名な『夜行巡査』、『外科室』などよりも先に公開された鏡花の第二作とされている。

鏡花の文体は基本的には幽玄で人を寄せ付けない難解さがあるのだが、これはかなり読みやすい。

題材が探偵モノというのも面白い。

大衆に迎合した鏡花について、いいか悪いかを論じるのはナンセンスだ。

売れないときに書いた(自分の本来書きたいものとは違う)魂を売って書いたような、なんとか売れようとして絞り出したものを持ち出されて「らしくない」と言われてもはいそうですとしか言えないからだ。

 

そういうわけで大衆に迎合した鏡花の『活人形』の導入はこう!

 

イケイケに売れている探偵、倉瀬泰助。

左頬に三日月型の傷を持つ日本屈指の探偵だ!!

……すごい!ティーンが読む小説みたい!!!

本郷の病院に半死半生で飛び込んできた病人が「毒を盛られた」とか「想い人が叔父に軟禁されており、今も、その毒牙にかからんとしている!!一緒に逃げようと誘ったときも先祖伝来の土地を守るためと一緒に逃げることもできなかった。なんとかして想い人を救いたい!アッ!毒が効いてきた!これは明日には死にそう!!!」

などとわめき、倉瀬は「じゃあ明日までにその想い人を救い出してやるぜ!」という話。

 

多分その想い人もうとっくに堕ちてるよ。おれはくわしいんだ。

絶対これ体だけは許しても心まではとか言ってるうちに心底まで支配されてるやつだよ。

「俺この戦いが終わったら結婚するんだ」と同じくらい使い古されてる常套句、フランス語でいうところのクリシェというやつ。

 

鏡花は辞書を引きながらでないと読めないとされているが、それはこの平易な作品でも変わりない。

以下、今回調べたものを列挙する。

 

実に容易ならぬ襤褸が出た。少しでも脱心が最後、諸共に笠の台が危ないぞ。

 

人間の頭のこと。笠を乗せる台を人間の頭に見立てて、命取りになるくらいのニュアンス。

 

こは高田駄平とて、横浜に住める高利貸にて、得三とは同気相集る別懇の間柄なれば、非義非道をもって有名く、人の活血を火吸器(すいふくべ)と渾名のある男なり。

 

ふくべっていうのは瓢箪のことなんだけど、このすいふくべっていうのはポイズンリムーバのことです。

吸角などともいう。

 

なんのかのと、体の可いことを言うが、婆々と馴合ってする仕事に極まった。誰だと思う、ええ、つがもねえ、浜で火吸器という高田駄平だ。そんな拙策を喰う者か。

 

馬鹿馬鹿しい。

 

全体虫が気に喰わぬ腸断割って出してやる。と刀引抜き逆手に取りぬ。
 夜は正に三更万籟死して、天地は悪魔の独有たり。

 

三更はいわゆる子の刻、午前零時から二時間ほどの間までの時間。

万籟は自然物が風に吹かれて立てる音。

木々が風に吹かれて立てるような音すらもしない真夜中、めっちゃ怖かったくらいの意味でとってよかろう。

 

続きまして膝を打った表現など。

 

「ようし、白状しなけりゃこうするぞ。と懐中より装弾(たまごめ)したる短銃(ピストル)を取出いだし、「打殺(ぶちころ)すが可いか。

 

これ見て気づいたんですけど、「ぶっ殺す」の「ぶっ」は「打つ」から来ていて、ちょっと勢いをつけて表現するときの、いわば形容詞なんですよね。

万葉集』にある「田子の浦ゆ うち出でてみれば 真白にそ 不尽の高嶺に 雪は降りける」の句にある「うち」と用法としては一緒なんですよ。そう考えてみれば「ぶっ殺す」という表現も古語から正当に進化して今もなお使われている文化的な表現であると言うこともできるのではないだろうか。

 

 

肩に手を懸け引起し、移ろい果てたる花の色、悩める風情を打視め、「どうだ、切ないか。永い年月よく辛抱をした。えらい者だ。感心な女だ。その性根にすっかり惚れた。柔順に抱かれて寝る気は無いか。

「殺す」と決めたあとのおっさんの科白なのだが、その後も希望をもたせようとするところ、非常にいいね。そして言うまでもなく下枝(ヒロイン)の拷問されてやつれ切った姿を移ろい果てたる花の色というのは実に雅な表現だ。

 

屠所の羊のとぼとぼと、廊下伝いに歩は一歩、死地に近寄る哀れさよ。蜉蝣の命、朝の露、そも果敢しといわば言え、身に比べなば何かあらむ。

 

鏡花らしい一文でよい。

 

鏡花の文章において言えば、話の構成や内容の凄まじさ、発想なんかは別段優れているとは思わない。

たとえば、薬草取りに行ってなんか怖かった話とか、探偵が華麗に事件解決!とか、ボンズマヨイガに迷い込んだ話とか、好きな女にメス入れたあと自分も死ぬ話とか。最後のやつだけちょっといいかもしれん。

僕が言いたいのは、題材が特に優れているわけではないということです。キャラ立ては毎回あんまり強くないし、この活人形はオチも弱い。

人間心理の機微よりは、目で見たもの、世界の美しさだとか、現実世界に肉薄して存在する怪奇なる世界への憧れからくる曖昧な状態の恐怖を描くのがうまい。

鏡花の凄まじさは、執念とも言える美文への執着にある。

言ってることは大したことではないのだが、(きもの きれい とか 部屋のしつらえが りっぱなど)そういう大したことないものが、鏡花にとってはもっと細かく世界が見えている。

鏡花がどのように世界を見ているかということに注目して作品を読み、鏡花の視点を真似て世界を見れば、その美しさに驚くことになる。

 

次は化銀杏でも読むか。