飲酒陶酔生活
酒を飲むといい気分になる。
人間はおおよそ血中アルコール濃度0.02〜0.05%あたりで所謂爽快期と呼ばれる状態に入り、爽やかで陽気な気分になるとされている。
なぜそうなるかと言うと、脳幹にある網様体という期間が麻痺し、大脳新皮質という理性を司る部位の活動が低下し、大脳辺縁系という感情や本能を司る部位が活発化するためである。
僕の場合は気分がよくなって、遠い異国のことがすごく身近に感じられたり、全能感と多幸感に溢れて、この世の美しさをより実感できたりする。
同じ人間という種族が地球の裏側にも住んでおり、各々の場所で生きている。
そして私達は生の苦しみに悶えながらも、同時に生の喜びを噛み締めながら生きている。
誰かと飲む酒の旨さと、一人で飲む酒の旨さが全く別であることを主張したい。
僕はどちらも美味しく酒が飲める派閥なのだが、どちらが好きかといえば一人で飲む酒のほうが好きかもしれない。
世界と自分が溶け合う実感が(実のところそれは酩酊が齎す妄想なのだが)あって、哲学が捗る。世界と自分のことを考えている時、この上ない幸福を感じる。
そしてそれを文章にしているときなどは無上の喜びがある。
飲酒は陶酔を齎す場合と、そうでない場合がある。
はっきり言っておくが、旨くなければ酩酊からの陶酔は得られぬ。
いい酒が、この世と哲学のあの世とのあわいに入り込む事のできる、いわば“黄金の蜂蜜酒”が必要なのである。
僕はウイスキーやワインを用いて飲酒陶酔生活へ入ることにしている。
時間をかけて飲むことに適しているからだ。
ワインを例にすれば、時間とともに変化する味わいはさることながら、やがて偉大なワインになることができるものを若いうちに摘んでしまうことも出来れば、自分の手で――そうはいうが実際にはワインの成長を見守ることしか出来ない――成長を手助けし、大いなる成長を目前で見ることもできる。いわんや味わうことをも、である。
現実の人間はそうはいかない。
これはたかだか数千円で得られる快楽としては、非常に得難いものであると僕は感じている。
しかし別の側面から見れば、穢に満ちたこの浮世を少しでも美しいものであると感じたいのかもしれぬ。
見るに堪えない苦しみに満ちた現世は、酩酊の眼鏡を通して見た時、ぼんやりと美しいなにかに映るのかもしれぬ。
果たしてそれが本当の世の姿であるかといえば、僕は決してそうではないと感じる。
だがそれが偽りの美しさであったとしても、ただ美しいものを見たいがために僕は酒を飲んでいるのかもしれない。