かぜはく電脳曼荼羅

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かぜはくの仏教アナキスト的側面の終焉

十代前半から自分はリバタリアンだという自覚があった。

更に言えば、アナキスト無政府主義者)としての側面が強かったと言える。

徹底的に管理されることを嫌っていて、自分の幸福は誰かに与えられた自由ではなく、自分で得た自由を謳歌することであると考えていた。

 

しかし社会人になって以後は、アナキストで居続け、かつ自分の幸福を追求することに全力を費やす限り、誰かを救済することは出来ないのだと気付いた。

とかくこの浮世には苦しみが満ちていて、多くのものがその苦しみから抜け出すことが出来ずに悶えている。僕は自分の苦しみから自分の身を遠ざけることは出来ても、自分のそばで苦しむ誰かを救うことについては完全に無力であることを悟った。

 

少年時代の僕は浮世の苦しみに直面しておらず、世の中にこれほども多く生に苦しむ人間がいると思っていなかったのだ。だから自由意志による自己追求が当たり前にできることが普通だと考えていて、多くの人間がその気になれば自分で自分を救済できると考えていた。

 

だが現実は違った。

浮世の苦しみに喘ぐ人々は、憂苦に悩まされ、自分を救うための手段を執ることが出来ずにただ艱難の渦中に漂っている。

 

これまでの僕はそういう人間について、勝手に苦しんで勝手に死ねと思っていた。

教養と哲学が足りないから苦しむのだ。現状を改善しようと思うものだけが救済に近づくことができる。苦しみから身を護ることができると考えていた。

いわば上座部仏教的発想である。

 

ただその手法で生きることは、自分以外の誰も救済出来ないということだ。

僕はそれについて、僕自身にできることは他にもあると思ったし、ただ純粋にこの世の中の苦しみを少しでも少なくしたいと考えるようになった。大乗的発想へのシフトである。

 

これはなぜかというと、自分の想定より浮世に苦しむ人類が多かったためである。

そういう意味では、現実的な世に満ちる苦しみを直視する社会性と誰かを救おうとするほどの余裕が出来たともいえる。

仏教でいうところの大悲の思想である。

 

今でも僕は自分自身の幸福は自分で掴むしかないと思っている。

しかしながら、すべての人類が自分で自分を救えるわけではない。

その救われない人類が自分の身内であるならば、僕は力を尽くして他者を救いたいと思う。自分で自分を救うことが出来るものが皆他者を救っていけば、この世に救われぬ人類が少なくなる。単純なことだ。

その為に国家が必要であれば利用するし、国家とは別の枠組みが必要なのであればそれを作る必要があるとも思う。

 

そうしてかぜはくの仏教アナキストとしての側面は死んだ。

 

僕個人は他者救済の方法が仏教によるものだけが真であるとは考えていない。方法は何でもいいのだが、参考にしている一つではある。ただ、仏教とアナキズムは相性がいいように見えて、原初仏教から続く救済を目的とした理念においては、ことさらにアナキズムと同一視することに妥当性があるとは思えない。

 

アナキズムが終わってメシア・コンプレックスが始まったような気がするが、今の僕の最大の関心事は僕の周りの人類の救済である。