かぜはく電脳曼荼羅

玄秘学、食文化、ゲーム、生と死に非常な関心があります。

以前超えられなかった壁に再び当たり、父親の訓示を受けて光明を見いだしたる話

かぜはくは学生時代ブイブイ言わしていた。

僕の前に敵はなかったし、僕が仲間と認めた奴もそこそこ強いやつが揃っていたので向かうところ敵無しであった。

 

ただ一つ僕が大学時代に失敗したと言えるのは、人を育てる力を養えなかったことにある。

やる気と実力のない、誰かに救われるのを待っている放蕩の破落戸だとしても、僕はその時人を育てることに真剣になれず、結果として職務を放棄した。

 

以来実はそれなりにその事について考えた。

 

今も思い出すのは、酒を強かに飲んで王の状態になった僕を見て、大学に入ってから出来た友人がふと漏らした言葉だ。

 

「王の実力は王と呼ばれるに相応しいもので、それ自体は誰もが認めている。しかし王の臣民――この人はかぜはくの臣民であるなあと人が認める人間が――不相応に少ないのだ」

 

まさにその通りであったと思う。

 

今にして思えばそれもまた、今回の答えに至る一つの助けであった。

 

悟りという言葉を前使っていたが、こういった他人に気付かされたようなのは悟りとは呼べない。だがこの先の悟りにたどり着くための重要な足がかりであることは違いない。

 

 

 

社会人になったいま、これがまた学生時代とは比べ物にならないほどのどうしようもない奴を部下に持ってしまい、否が応にも過去の失敗を想起してしまう日々を送っていた。

 

なんでやる気ねえやつを導いてやんなきゃなんねえんだよ。

なんで俺様の言うこと聞かねえ奴のために尽くしてやんなきゃなんねえんだ。

そもそも費用対効果が見合ってないんだよ。この愚図どもに仕事を任せるなら僕が自らやったほうが一千億倍納得のいく仕事が出来るんだよ。

すべてのロボットアニメは道を譲れアホボケカス!

と学生時代と全く同じことを考えていた。

 

山本五十六がやって見せ、言って聞かせてさせてみせ、褒めてやらねば人は動かじ。

話し合い、耳を傾け承認し、任せてやらねば人は育たず。

と言っているのだが褒めるところもなければ出来もしないし話し合いにもならない、どうにもならないようなのもこの世には存在する。

じゃあそんなのどうしたらいいの?

高校生の僕なら愚図は死ね!と言って切って捨てただろうし、大学生の僕は諦観して距離を置いただろう。

 

で、自分の考える理想の王について言うならば、自分の大学時代の選択は大いなる過ちであったと認めざるを得ない。

それならまだもっと前の僕の方がよい。

虚無主義の暗君よりは無慈悲な暴君のほうがまだ僕はついて行こうと思えるからだ。

 

 

そんなこんなで部下がさっぱり成長しないまま三ヶ月ほど経った。

 

この打てど響かぬ感じはもう慣れたもので、今度も半分以上人を育てる仕事に関しては職務放棄していたところであった。

だからと言ってそのままでは数年経って何の成長もしていないと言うことになってしまう。

さりとて解決策も得られぬまま、時は流れていく。

 

最近生活の上で寄る必要があり、実家に度々帰っている。

今の親との距離感は実家で暮らしていた時より遥かにお互いにとってよい。

父母も実家の猫も僕の家内のことを気に入ってくれているし、会話にもなる(すなわち以前は会話にならなかった)。なにより、実家で暮らしていたころよりお互いにお互いの力になろうとする働きがある。

 

僕はふとした思いつきで、昼間から飲んだくれている耄碌した親父に尋ねてみた。

「人をどのようにして指導するのか」について。

酒がないと力が入らない親父は手を震わせながら、どうしようもない月並みなことを言い始めた。

 

「きつい言い方はしたらあかんのや」

「物腰は柔らかく、しかし言うべき時は言わなきゃいかん」

 

んなこと判っとるわい。もっと含蓄のあることは言えんのかと思っていたのだが、この言葉だけは響いた。

 

「こいつにならついていけると思われるような人間になることや。何だかんだと教えるのはその後で、それこそが前提条件や。」

 

それ自体は別段特別な内容というわけでもなく、自己啓発本やらで見ることが出来る内容かもしれない。

僕に何かを教える時、「ヘッタクソやなお前!」「力のない奴やのう!(怪力無双のかぜはくに向かって)」「全然やないか!」などと悪態をつく親父ではあるが、その平凡な言葉には社会人四十年の(今はニート!)確かな重みがあった。

 

霧中に行き当たった灯台、パズルの空いた部分にひとりでに収まるピースのような、そのような物が見えた。

あるいは暗雲の雲井に、ほんの僅かに顔を見せた悟りの明月の幽き光だ。

 

親父の平凡だが重みを持った言葉が、僕が来し方常に追い求めてきた王としてのあるべき姿――それに何が足りないのか――を明らかに照らした。

 

僕なら、自分のことをどうでもいい、どうにもならないゴミだと思っている相手にはついていかない。

まことに、まことに申し上げるのだがこの僕には生まれつき王としてのカリスマというものが備わっていて、それこそが自分を信じられる柱にもなっているのだが、それだけで付いてくる人間ばかりではない。

本音を言えば別にアホの相手はしたくないのだが、だがそれは僕の目指す自己実現とは反してしまう。

ムハンマドのようにあれと思う。

自分や自分の規範にしている何かがそれを望まないからという理由で、目的を達成する手段を狭めてはならないのだ。

 

僕が今までついて行きたいと思った人間は誰だ?と考えて、僕にとっての「家庭教師」である人物と偉大なる我が主上にすぐに思い至った。

彼女らが僕に向ける態度はどんなものであっただろうか?

なぜあの友人は僕の民がいないと言ったのか。

全てが一つの答えへと収束していった。

初体験のスポッチャでアイドルの顔面に薬剤を掛けて接吻未遂された話

台風21号が日本をズタズタにし、関西空港は日本から分断されて沈没した。

 

実の所かぜはくは、六日からフランス旅行の予定であった。

エールフランスの機内でシャンパーニュを嗜み、デッドプール2を見る計画であった。

ルーブル美術館を三日掛けて楽しみ、カタコンブ・ド・パリの髑髏に思いを馳せるつもりであった。

ビストロで食事とワインのマリアージュに舌づつみを打つ心づもりであったのだ。

 

しかしその目算は外れた!

かぜはくは結局家の中でルーブル美術館の図録を眺めながらグラスを傾ける生活を送るはめになった。

 

内容のない長期休暇が出来てしまったため、さて何をするかというフェイズに入り、では今日は体を動かすことにしようという流れになった。

 

そんなわけで我々は大阪はミナミにあるラウンドワン、スポッチャなるものにやってきたのであった。

 

実はこのかぜはく、スポッチャなるものをしたことがなかった。

インドアおたくなので家でゲームしてた方が上でしょと思っていたが、これが存外いいものであった。

 

そういうわけなので特によかったものを列挙ていく。

 

1.バッティングセンター

はニャんさんがバッセンと呼称していたので、かぜはくもそう呼ぶ。

「バッセンしようぜ」

かぜはくがそう言うと、じろーは

「は?(なんだこいつ)」

と答えた。どうも抜栓という意味で取られたらしい。そりゃ僕だっていついかなるタイミングで抜栓して酒キメてもいいと思うけど。

嫁に酒キチガイだと思われているが、あながち間違っていないので理解が深まっているなあと感動することになり、オールオッケーオールハッピーであった。

 

なんだかんだバッセンが一番面白い。

 

2.カラオケ

さーて人でも殺すかという心づもりでカラオケボックスに入って叫び続けていたら女児が部屋の前で順番待ちをしており、無垢なる命、汚す訳にはいかないという気持ちになり少し抑えた。

 

3.セグウェイ

おもしろい。セグウェイで通勤したい。

 

4.ゲーセン

ここ、今回の本題です(中身があるとは言っていない)。

ここにあるゲーセンの中身については型落ちの筐体が殆どであり、それでいて一昔前というほどではない絶妙に古い筐体が揃っていた。そして全てが無料だ。コンティニューも無料。

エアホッケーやらパックマンやらレースゲームやらガンシューティングやらダンレボやら諸々とあった。

ガンシューティングは面白いですね。

いやこれは宗教になったわけではなく宗教を打倒するための調査だからね。

男なら近接だよね。

 

さて。

ここに一つ非常に面白いゲームがあったので備忘録として、また誰かにこの面白さを共有したい気持ちであったので書くこととする。

 

あらかじめ言っておくが、面白いというのはゲームがということではない。ゲームはかぜはくネミテア向けのクソゲーだった。

 

「セーラーゾンビ 愛のワクチン弾で撃ち抜け!」

と暖簾にデカデカと書いており、

「おいなんだこれは禍々しいな。興奮してきたな」

「とにかく冷やかしてみよう」

ということになり、プレイした。

 

シートに着くとゲームが始まる。

一人でプレイするか、二人で協力してプレイするか選べる。

パーティプレイに越したことはない。

私達は迷いなく協力プレイを選んだ。

そしてディスプレイには幾人かの女性が現れ、そのうち一人から誰かをパートナーに選べるらしい。

少し前テレビでは常に出ていた、何KB何ティーエイトの面々である。

しかし残念ながら我々は彼女たちについて詳しく知らない。

そのため、一番前髪が好みに感じた一人を選び、銃で撃ち抜いた。

 

ゲームが始まる。

 

「お願い!この銃で私を打って!」

 

おやおや殺人教唆ですか。

よろしい。殺して進ぜよう。

 

バキューンバキューン

 

主人公の男性は女性を撃ち抜くことに躊躇っていたが、あいにくこのかぜはく、すんこくんには「息をするように命を奪う」「かぜはくさんが居るだけで命の価値が下がる」と言われるほどの人格者、彼女を苦しみから解き放つために引き金を引いた。

 

ところでこの主人公の声、エロアニメとかですごくよく聞いた覚えがある。

そのせいで話のないようが頭にあまり入って来ず、よく聞いた声だなあという気持ちになる。

 

女性の頭を撃ち抜いたのだが、彼女は直ぐに立ち上がり、「打ってくれてありがとう」などといかれた台詞を吐いてくる。

どうやらこの銃に装填されている弾丸はワクチン弾なるもので、ゾンビ化した人たちの症状を抑制する効果があるらしい。

 

彼女の名前はま○ゆさんらしい。

ああ、あなたがま○ゆさんですか。お噂はかねがね。そう言うひとが居るということを知っています。私はアニメAKB0048を見ましたからね。あなたロボなんでしょう。

 

主人公である我々とま○ゆさん以外は全てゾンビになってしまい、治すためには研究所に連れて行ってワクチンをぶち込みおねしょする必要があるらしい。

 

ゾンビまみれの街をま○ゆさんと駆け抜け、ゾンビがいたらワクチン弾をぶち込んで沈静化させる。

 

聞いた事のあるような人名がもろもろと出てくるのだが、我々は彼女たちについて詳しく知らない上にキャラクタのモデリングの区別がつかないため、ま○ゆさんが

「ゆうこ!わたしがわからないの?」

「みんな!目を覚まして!」

「あんにん!やめて!」

などと声を上げるのだが全員同じ顔のように見えるためとにかく打って打って撃ちまくる。

 

そうこうしていたらなぜか広場にアンプとなんか音をならすための機械がおもむろにおいてあり、ま○ゆさんがそれを操作するとゾンビたちは急に歌い、踊り始める。

 

「よくわからない」

 

我々はそう漏らした。

 

急に何KB何ティーエイトさんたちの楽曲を元にした音ゲーが始まり、悪戦苦闘の末クリアする。

 

この調子で踊ったり歌ったりしながら彼女らを研究所につれていけばいいらしい。

 

次の場所へと向かい始めると、何KB何ティーエイトさんたちとは別に何KB何ティーエイトおたくのみなさまたちもゾンビとなって襲いかかってくる。

ズタボロのぐちゃみそにしながら進むが、ボスのわんちゃんが出てきて私達は負けてしまった。

しかし我々はコンティニュー無料。いくらでもコンティニューするぜ。

 

「戻ってきてくれるって信じてた!」

ま○ゆさんは言う。

別に我々はおまえらを見捨ててバッセンに行ってもいいんだからな。感謝しろ。

 

なんとかボスを倒し、なんやかんやといい感じになり二度目の音ゲー

 

この辺りで集中力が乱れてきており、ミスを多発する。

 

更に進み、何KB何ティーエイトおたくのみなさんをえぐれめぐれにしながら進む。

うまくコンボが決まったりするとま○ゆさんが

「すごいすごい!」

「あなって天才!」

「今のすごーい!」

「やったー!」

「かっこいい!」

などと褒めちぎってくれる。ちぎりまくって千々に乱れてくれる。

このあたり、ファンのみなさまにはたまらんのかもしれん。

 

次のボスでは協力している相手と同じところを撃ち、力を合わせた絆パワーでボスを倒す必要があるのだが、本来想定されているプレイヤー層的にはプレイしているキモオタとキモオタの絆が上がるのかなと妙に感動してしまい、目頭を押さえた。

 

ここでもコンティニューを余儀なくされ(何回もコンティニューしてるんだけど)、ふとコンティニューボタン付近を見るとワンプレイ400えんと書いてあった。

 

 

このゲームクリアすんの下手すれば4000円とかかかるんじゃねえか?

 

かぜはくはぞっとした。

 

紆余曲折あってラストステージで何回目かのライブを終わらせ、やったーゲームクリアだまゆゆも接吻してくれるというところで実際はしてくれず、このゲームの一番面白かった所(ゾンビになったメンバーが手すりに座って滑ってくる)のことがつよく想起された。

 

いい加減長すぎる尺に膀胱が悲鳴を上げており、私達は筐体を後にした。

 

いやあ面白いゲームだった……。

 

 

かぜはくのテイスティングノート―ローヌの巨人編―


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はい。アドベンチャータイムは面白いですね。

面白いのが入ってきたので。

 

コート・デュ・ローヌ最強の作り手、ギガルです。

 

輝きのある深みのあるルビー。粘性はそれなりに強く、外見からは少し熟成の感もあるが、まだまだポテンシャルを感じる色合い。

 

一口飲んでみたところ全然開いておらず、香りもボケっとしてたので容赦なくダブルデキャンタージュ。

 

それだけで香りが素晴らしくなった。

ジャミーで熟したストロベリーやブラックカラント、ベリー系の香り。湿った土の香りがある。第一アロマが強く、第二アロマはそこまででもない。

 

舌の上に置くと、果実味が強く感じる。爽やかに酸味があり、緻密なタンニンがあってちょっとがっしりしている。

しかしローヌにはもっともっとがっしりしたゴリおじやゴリ姉貴たちが沢山いるので、ちょっと強いシラーズみたいな感じ。

つまり果実味が強く渋みが少なめ。

 

あとは余韻がちょっと長い。探さなくても香りが続くが、探した時にはかなりはっきりと感じられ、それが非常に魅力的な風味。

 

味わいにも余韻にも甘みが際立つ。

 

開いたあとのお味で2000円なら買いですね。

 ギガルは超強いので自社畑も持ってるけど、これはネゴシアンもの。つまりぶどう買い付けものですね。

それでこのクオリティならさすがギガルと言ったところか。

 

しかしなんならギガルのフラッグシップ、コート・ロティが飲みたいなー。

 

こいつはぽっと降って湧いたので早い者勝ちの中勝ち取ったのだが、次からは試験用のワイン飲まねばならぬ。

 

クーン。

 

 

『 恋は雨上がりのように』を見ました

Amazonプライムが今年も知らないうちに更新されていたのでお勉強ついでになんかしら見ることとした。

 


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お勉強の様子です。

 

僕もじろーもかつて『 恋は雨上がりのように』を読んでいたので、いざ見てみむとするなり。

 

この上なく雑な紹介をするなら、十七歳の女子高生(黒髪ロングでツリ目のかぜはく的にポイントが高い)がバイト先の店長(四十五歳バツイチ)に恋しちゃうみたいな話だ!

 

店長の学生時代における同期が今は作家をしてるんだけど、再開したシーンの「俺たちは大人じゃない。同級生だろ」っていうのに痺れましたね。

 

かつて僕が紅顔の美少年であったころは大人に非常な憧れをもっていた。たとい二十歳になったとて直ちに大人になれるものではなく、大人として恥じることの無い条件を満たしてこそ真に大人として認められ、尊敬されるべきだと考えていた。

 

実際はどうか。

確かに大人というのは責任が伴い、社会から様々なことを求められる立場にある。

しかし自分が憧れたような、夢見たような大人が一体何人いるというのだ。

諸手で足りるほどしかいないではないか。

少なくとも社会に求められる大人と、僕の考える大人とには乖離があるし、そのどちらが大人として世間に捕えられているかは、世に僕の考える大人の数が少ないことからも明らかなことであろう。

 

作中の二人にとって大人という言葉は、二人で会う時に全くなんの意味も持たないものだ。

方や地方都市に山ほどあるファミレスの店長、かたや今を時めく売れっ子作家。

企業人としての立ち居振る舞いや、接客業としてお客様のみならず、雇用する人間をも監督する立場と責任を持つ店長。

綺羅星のごとく文壇に現れ、その後も老若男女を問わず愛される純文学を――別の言い方をすれば大衆に迎合した、毒気のないクソ――手掛ける作家。

 

共に文学を志す徒であった二人にとって、十年の時を経て再開した時大人というカテゴライズは無用のものであった。意味を成さないものであった。二人のどちらもが求めているものではなかった。

 

このアニメを隣で見ていたじろーが、

「横浜って雨季あったっけ?」

と言うくらい作中は常に雨に祟られている。時折晴れたりはするものの、物語が進むのはいつも雨と共に進む。いつか来る「雨上がり」に向かって進む。

主人公と中年店長はほぼ時を同じくして停滞していた雨の中から、雨上がりに向かって進み始める。その方向性は共に歩むのではなく、各々の歩みを阻む暗雲を払うために。

 

恋は雨上がりのように、に続く言葉として、僕は「終わった」が当てはまるのではないかと思った。

主人公が「自分を進ませてくれたあの人を、雨上がりの空を見る度思い出す」と言うように、彼女がもう一度走り始めてより後に見た雨上がりの瞬間に、彼女の最後まで片思いであった恋は、自分を再び歩ませてくれた店長に対しての尊敬に変わったのではないだろうかと。

僕にそう思わせるまでに、店長の態度は素晴らしかった。十七歳をミスって夜九時に家に上げてしまい、キー入力ミスでちょっとハグしてしまったあともなんとかリカバリーをしたのでアウトではない。セウーフくらいだ。

 

思えば僕も色んな大人に導かれてきた。

僕の目標にある大人としての理想像は恐らくその体験が原型にあるのだろうと思う。

僕が大人に数える人達のことを思うたびに、自分も誰かを導くことが出来ればと思う。

 

書き加えるとすれば、店長と作家が言うような「文章は毒がなきゃクソ」「自分の毒で誰かを感動させたい」という意見には強く強く賛成する。全くその通りだ。

デビルクエストを見ました

仕事から帰ってメシをキメたあと魔法少女 俺を見るなどし、(推しは森久保です)、惰性でアドベンチャータイムを見たあと微妙に時間が余ったのでAmazonプライムでなんかしらの映画を見ることにした。

 

大作を見ると日付を回ってしまうので、90分くらいのやつを見ることにする。

 

https://www.amazon.co.jp/gp/video/detail/B00FIWHQVG

これです。

 

とかく人というものは、不条理な出来事があった時に責任の所在をもとめようとする。

それが正しいかそうでないかはさして重要ではない。共同体の平和を守るために、突如として現れた禍の原因が何であるか、秩序の破壊者を作り上げることに意味があるのだ。

そしてこの暗黒時代においては、それは「魔女狩り」などと呼ばれたのであった。

 

最初に言っておくが邦題がネタバレなタイプの映画である。

 

舞台は十四世紀!エルサレムもアッカもイスラームに奪われて完全敗北してるけどそれはそれとして十字軍のクルセイダーズが主人公だ!

 

ニコラス・ケイジ演じる騎士ベイメンと体と顔がでかく、怪力無双のゴリおじ、フェルソンだ。

 

ちなみにこの二人はめちゃくちゃ強く、兜でサラセン人を殴り殺したりヘルム付けた相手を無防備な頭突きで倒したりするとんでもないやつらだ。

 

しかしこの二人は上官(神官)に楯突いた結果十字軍をクビになり、脱走兵になる。

 

方々を旅するうち、ニコラス・ケイジとゴリおじはある街へとたどり着く……。

 

そこはゴリおじも恐れる「魔女狩りの街」だった。

 

ちょっと前に街周辺をギャルがバーニラバニラ高収入と唱えながら散歩してたら神父に捕縛され、近頃巷で流行るペストの原因ということにされ、これはもうえらいことですよみたいな状態となってるところに顔を出してしまったのがニコラス・ケイジとゴリおじだ。

ひょんなことから脱走兵であることがバレてしまい、この街に住む枢機卿の元に連行されてしまう。

 

枢機卿は既にペストで虫の息なのだが、六日間くらいかかるところにある修道院に保存されてる「ソロモンの書」を魔女の前で音読したら魔女が生理的に嫌がってスタンするので、トントン拍子に進んで多分ペストも無くなる。いける。みたいな流れで魔女を修道院まで連れていくこととなったみたいな話。

 

 

とにかくこの映画、ゴリおじがめちゃくそかっこいい。

いろいろツッコミどころはあるB級映画なのだが、酒飲んでなくても楽しめるタイプのB級。

ゴリおじがイケてるからとにかく見るんだ。

 

一番面白かったところは、クライマックス寸前のちっちゃい悪魔がわらわら出てきて、悪魔を倒すためにはソロモンの書にある「悪魔祓い」のページにある祈りを囁いたり詠唱したり念じたりしないといけない!俺達が悪魔を止めているあいだにキリシタンボンズは詠唱してくれ!みたいな場面でリビングデッドまみれでやばくなったときにニコラス・ケイジがやけくそになって剣を振り回し、ちょっと悪魔の頭部分にカスったら悪魔が爆発的四散し、

 

「頭を狙え!」

 

「よし!」

 

でゴリおじとリトルボーイが悪魔をめった切りにしまくるとこ。

 

剣で倒せるんかい。

 

結局キリシタンボンズはいいところがなく、ニコラス・ケイジとゴリおじ(MVP)と少年が悪魔を囲んでアーメン!とか叫びながらノーガードで殴り、物理で悪魔を調伏した結果世界からペストはなくなったし魔女のギャルは普通のギャルに戻ったのであった。

 

最初から最後までゴリおじがかっこいい映画で、様々な荒い部分は荒いが故にかっこいいゴリおじによって全てがどうでもよくなる。

悪魔と相撲して勝つとこ、とてもいいですね。

ゴリおじクエスト、おすすめです。

 

パネイオン

アサシンクリードしてたらパネイオンが出てきたので、過去の思い出とともに出る由無し言を手慰みに書き捨つることとする。

 

「パネイオンとは?」

齢17のかぜはくは、友人もてぎを伴って世界史の教科書のアレクサンドリア地図のページを指し示しながら教師にそう訊ねた。

「判らん。パンでも祀っているのでは」

そう答える教師にかぜはくは、

「それじゃあパネイオンの何がぱねえのか判らんではないか。調べておいてくれたまえ」

と言い、その後は終日「パネイオンの何がぱねえのか」について考え、友人と議論した。

その結果もてぎくんは当時我々が首元までハマりにハマっていたマビノギ(通称まぼにぎ)で課金して手に入れるペットに「パネイオン」と名付けた。「ムセイオン」も買い、名付けた。

 

生と死、あるいはその両方の恐怖からの逃避のために、幸福度を実感するために、人類は宗教というものを作り出した。

「パネイオン」もそうした宗教のための一施設であった。

新旧を問わず、聖書にも記述がある。

士師記』、『 申命記』などでは、アムル人らの神、バアルを祀っていた。詳細は省くが、ヤハウェはこれをボコボコにし、すなわちヤハウェを祀るものたちがバアルを祀るものたちをボコボコにした。

ここにバアル神の零落が発生し、ヤハウェによるいわばバアル神の「妖怪化(悪魔化とも言うべき)」が行われた。

 

話をパネイオンに戻そう。

この妖怪の住む山を、ヘレニズムの時代は「パネイオン」と呼んだ。牧羊神パーンを祀る神殿である。

ところでこのパーン神は性豪であった。羊は多産のシンボルであり、古今を問わず牧羊神は性に挑戦的な(配慮した表現)ものが多い。

角のある姿で羊爪を持った姿であるインキュバスや悪魔的イメージの象徴たるサタンのイメージなどは、このパーン神から来たものであるとされているらしい。

前の話に戻れば、零落したバアル神のよく知られる姿は蝿の王であるが、同一視されるモレク神などは角の生えた姿であり、バアル神とともにユダヤ的思想の立場からは淫祠邪教の神とされている。

 

バアル神が邪教呼ばわりされた理由としては、人身御供を行っていたという理由があるにはあるのだが、敵方のヤハウェ側の嫉妬深く非常に攻撃的な性格を考えるにどうも牽強付会の感が強い。

 

普遍的な邪教とはなんだろう?

宗教とは浮世の苦しみを少しでも和らげるための拠り所としての役割があり、その道から外れたものを邪教と呼ぶのは判る。

しかし多くの場合には、人と人が、宗教と宗教が衝突する場合に片方が弾圧のために一方的に邪教が認定される。

普遍的な邪教などというものはなく、片方の側から見て容認できなかった場合に邪教として認め、滅ぼし、あるいは零落させるという目的のための過程、大義名分としての邪教という一元的な見方があるだけではないかと思う。

宗教は、それらを信じる人達の幸福を目的として作られているシステムのはずだからだ。

 

話は変わるが、パーン神は大変人気な神だった。ギリシア中にパネイオンはあったとされているし、羊を常食するギリシア人にとって生活に密着した神であった。多神教は神が分業制になり、それがより単純な欲求に繋がる神であったためにパーン神というのは神の効能……すなわち幸福の実感が得られやすい神だったのではないかと僕は考えている。

 

すなわち人気の神や息の長い(零落しなかった)神というのは、より効能の実感されやすい神であろう。宗教は人によって作られたものであるが故に、好き勝手に作り出した幻影としての神に期待する効能が得られなければ、容易く零落するのである。いわば神は人間の幸福のための奴隷である。

 

パーン神について言えば、その源をバアル神に拠るにせよメソポタミアのタンムーズにするにせよ、ウガリットに遡るにせよ、その信仰は遥か古代から今にまで続く。

ネオ・ペイガニズムと呼ばれる活動は、マジョリティな宗教に対しての異教復興運動とも言われているが、その一派にパーン信仰がある。そうした人達の信仰の中心地や拠り所となっている場所もまた、「パネイオン」と言っていいだろう。

 

人類史のなかで、神というのは無数にいた。しかし連綿と続く人間と神の歴史のうち、今昔を問わず「パネイオン」はどこかにあるのである。

そう考えると、僕は「パネイオン」について「ぱねえな」と思うのである。

 

おわり

パッド

かぜはくは困っています。

 

いいゲームパッドがないからです。 

 

元々僕はPSのコントローラを変換ケーブルで繋いで使っていて、それがへたってしまったので(十年前の話)次善策としてPS2のコントローラを使っていたのだがこれもまたへたってしまった(五年くらい前の話)。それでもだましだまし使っていたのだがいよいよもって全てのキーが押ささったまま(これは北海道で使われる言葉だが、「押してある状態」を説明するのに非常に便利でよい)帰ってこなくなったりチャタリングを起こしまくっていたのでいい加減諦めてじろーの嫁入り道具のゲームパッドを使っている。

 

だがしかし、これもまたへたってきてしまったのだ!!!

 

しかし買うにしてもいいデザインのパッドはなく、ほとほと困り果てている。

 

かくなる上はキラーさんちでやったみたいに小さいキーボードをゲームパッドにするというのがいいのかもしれないと思いつつある。