かぜはくのテイスティングノート―ローヌの巨人編―
はい。アドベンチャータイムは面白いですね。
面白いのが入ってきたので。
コート・デュ・ローヌ最強の作り手、ギガルです。
輝きのある深みのあるルビー。粘性はそれなりに強く、外見からは少し熟成の感もあるが、まだまだポテンシャルを感じる色合い。
一口飲んでみたところ全然開いておらず、香りもボケっとしてたので容赦なくダブルデキャンタージュ。
それだけで香りが素晴らしくなった。
ジャミーで熟したストロベリーやブラックカラント、ベリー系の香り。湿った土の香りがある。第一アロマが強く、第二アロマはそこまででもない。
舌の上に置くと、果実味が強く感じる。爽やかに酸味があり、緻密なタンニンがあってちょっとがっしりしている。
しかしローヌにはもっともっとがっしりしたゴリおじやゴリ姉貴たちが沢山いるので、ちょっと強いシラーズみたいな感じ。
つまり果実味が強く渋みが少なめ。
あとは余韻がちょっと長い。探さなくても香りが続くが、探した時にはかなりはっきりと感じられ、それが非常に魅力的な風味。
味わいにも余韻にも甘みが際立つ。
開いたあとのお味で2000円なら買いですね。
ギガルは超強いので自社畑も持ってるけど、これはネゴシアンもの。つまりぶどう買い付けものですね。
それでこのクオリティならさすがギガルと言ったところか。
しかしなんならギガルのフラッグシップ、コート・ロティが飲みたいなー。
こいつはぽっと降って湧いたので早い者勝ちの中勝ち取ったのだが、次からは試験用のワイン飲まねばならぬ。
クーン。
『 恋は雨上がりのように』を見ました
Amazonプライムが今年も知らないうちに更新されていたのでお勉強ついでになんかしら見ることとした。
お勉強の様子です。
僕もじろーもかつて『 恋は雨上がりのように』を読んでいたので、いざ見てみむとするなり。
この上なく雑な紹介をするなら、十七歳の女子高生(黒髪ロングでツリ目のかぜはく的にポイントが高い)がバイト先の店長(四十五歳バツイチ)に恋しちゃうみたいな話だ!
店長の学生時代における同期が今は作家をしてるんだけど、再開したシーンの「俺たちは大人じゃない。同級生だろ」っていうのに痺れましたね。
かつて僕が紅顔の美少年であったころは大人に非常な憧れをもっていた。たとい二十歳になったとて直ちに大人になれるものではなく、大人として恥じることの無い条件を満たしてこそ真に大人として認められ、尊敬されるべきだと考えていた。
実際はどうか。
確かに大人というのは責任が伴い、社会から様々なことを求められる立場にある。
しかし自分が憧れたような、夢見たような大人が一体何人いるというのだ。
諸手で足りるほどしかいないではないか。
少なくとも社会に求められる大人と、僕の考える大人とには乖離があるし、そのどちらが大人として世間に捕えられているかは、世に僕の考える大人の数が少ないことからも明らかなことであろう。
作中の二人にとって大人という言葉は、二人で会う時に全くなんの意味も持たないものだ。
方や地方都市に山ほどあるファミレスの店長、かたや今を時めく売れっ子作家。
企業人としての立ち居振る舞いや、接客業としてお客様のみならず、雇用する人間をも監督する立場と責任を持つ店長。
綺羅星のごとく文壇に現れ、その後も老若男女を問わず愛される純文学を――別の言い方をすれば大衆に迎合した、毒気のないクソ――手掛ける作家。
共に文学を志す徒であった二人にとって、十年の時を経て再開した時大人というカテゴライズは無用のものであった。意味を成さないものであった。二人のどちらもが求めているものではなかった。
このアニメを隣で見ていたじろーが、
「横浜って雨季あったっけ?」
と言うくらい作中は常に雨に祟られている。時折晴れたりはするものの、物語が進むのはいつも雨と共に進む。いつか来る「雨上がり」に向かって進む。
主人公と中年店長はほぼ時を同じくして停滞していた雨の中から、雨上がりに向かって進み始める。その方向性は共に歩むのではなく、各々の歩みを阻む暗雲を払うために。
恋は雨上がりのように、に続く言葉として、僕は「終わった」が当てはまるのではないかと思った。
主人公が「自分を進ませてくれたあの人を、雨上がりの空を見る度思い出す」と言うように、彼女がもう一度走り始めてより後に見た雨上がりの瞬間に、彼女の最後まで片思いであった恋は、自分を再び歩ませてくれた店長に対しての尊敬に変わったのではないだろうかと。
僕にそう思わせるまでに、店長の態度は素晴らしかった。十七歳をミスって夜九時に家に上げてしまい、キー入力ミスでちょっとハグしてしまったあともなんとかリカバリーをしたのでアウトではない。セウーフくらいだ。
思えば僕も色んな大人に導かれてきた。
僕の目標にある大人としての理想像は恐らくその体験が原型にあるのだろうと思う。
僕が大人に数える人達のことを思うたびに、自分も誰かを導くことが出来ればと思う。
書き加えるとすれば、店長と作家が言うような「文章は毒がなきゃクソ」「自分の毒で誰かを感動させたい」という意見には強く強く賛成する。全くその通りだ。
デビルクエストを見ました
仕事から帰ってメシをキメたあと魔法少女 俺を見るなどし、(推しは森久保です)、惰性でアドベンチャータイムを見たあと微妙に時間が余ったのでAmazonプライムでなんかしらの映画を見ることにした。
大作を見ると日付を回ってしまうので、90分くらいのやつを見ることにする。
https://www.amazon.co.jp/gp/video/detail/B00FIWHQVG
これです。
とかく人というものは、不条理な出来事があった時に責任の所在をもとめようとする。
それが正しいかそうでないかはさして重要ではない。共同体の平和を守るために、突如として現れた禍の原因が何であるか、秩序の破壊者を作り上げることに意味があるのだ。
そしてこの暗黒時代においては、それは「魔女狩り」などと呼ばれたのであった。
最初に言っておくが邦題がネタバレなタイプの映画である。
舞台は十四世紀!エルサレムもアッカもイスラームに奪われて完全敗北してるけどそれはそれとして十字軍のクルセイダーズが主人公だ!
ニコラス・ケイジ演じる騎士ベイメンと体と顔がでかく、怪力無双のゴリおじ、フェルソンだ。
ちなみにこの二人はめちゃくちゃ強く、兜でサラセン人を殴り殺したりヘルム付けた相手を無防備な頭突きで倒したりするとんでもないやつらだ。
しかしこの二人は上官(神官)に楯突いた結果十字軍をクビになり、脱走兵になる。
方々を旅するうち、ニコラス・ケイジとゴリおじはある街へとたどり着く……。
そこはゴリおじも恐れる「魔女狩りの街」だった。
ちょっと前に街周辺をギャルがバーニラバニラ高収入と唱えながら散歩してたら神父に捕縛され、近頃巷で流行るペストの原因ということにされ、これはもうえらいことですよみたいな状態となってるところに顔を出してしまったのがニコラス・ケイジとゴリおじだ。
ひょんなことから脱走兵であることがバレてしまい、この街に住む枢機卿の元に連行されてしまう。
枢機卿は既にペストで虫の息なのだが、六日間くらいかかるところにある修道院に保存されてる「ソロモンの書」を魔女の前で音読したら魔女が生理的に嫌がってスタンするので、トントン拍子に進んで多分ペストも無くなる。いける。みたいな流れで魔女を修道院まで連れていくこととなったみたいな話。
とにかくこの映画、ゴリおじがめちゃくそかっこいい。
いろいろツッコミどころはあるB級映画なのだが、酒飲んでなくても楽しめるタイプのB級。
ゴリおじがイケてるからとにかく見るんだ。
一番面白かったところは、クライマックス寸前のちっちゃい悪魔がわらわら出てきて、悪魔を倒すためにはソロモンの書にある「悪魔祓い」のページにある祈りを囁いたり詠唱したり念じたりしないといけない!俺達が悪魔を止めているあいだにキリシタン・ボンズは詠唱してくれ!みたいな場面でリビングデッドまみれでやばくなったときにニコラス・ケイジがやけくそになって剣を振り回し、ちょっと悪魔の頭部分にカスったら悪魔が爆発的四散し、
「頭を狙え!」
「よし!」
でゴリおじとリトルボーイが悪魔をめった切りにしまくるとこ。
剣で倒せるんかい。
結局キリシタン・ボンズはいいところがなく、ニコラス・ケイジとゴリおじ(MVP)と少年が悪魔を囲んでアーメン!とか叫びながらノーガードで殴り、物理で悪魔を調伏した結果世界からペストはなくなったし魔女のギャルは普通のギャルに戻ったのであった。
最初から最後までゴリおじがかっこいい映画で、様々な荒い部分は荒いが故にかっこいいゴリおじによって全てがどうでもよくなる。
悪魔と相撲して勝つとこ、とてもいいですね。
ゴリおじクエスト、おすすめです。
パネイオン
アサシンクリードしてたらパネイオンが出てきたので、過去の思い出とともに出る由無し言を手慰みに書き捨つることとする。
「パネイオンとは?」
齢17のかぜはくは、友人もてぎを伴って世界史の教科書のアレクサンドリア地図のページを指し示しながら教師にそう訊ねた。
「判らん。パンでも祀っているのでは」
そう答える教師にかぜはくは、
「それじゃあパネイオンの何がぱねえのか判らんではないか。調べておいてくれたまえ」
と言い、その後は終日「パネイオンの何がぱねえのか」について考え、友人と議論した。
その結果もてぎくんは当時我々が首元までハマりにハマっていたマビノギ(通称まぼにぎ)で課金して手に入れるペットに「パネイオン」と名付けた。「ムセイオン」も買い、名付けた。
生と死、あるいはその両方の恐怖からの逃避のために、幸福度を実感するために、人類は宗教というものを作り出した。
「パネイオン」もそうした宗教のための一施設であった。
新旧を問わず、聖書にも記述がある。
『 士師記』、『 申命記』などでは、アムル人らの神、バアルを祀っていた。詳細は省くが、ヤハウェはこれをボコボコにし、すなわちヤハウェを祀るものたちがバアルを祀るものたちをボコボコにした。
ここにバアル神の零落が発生し、ヤハウェによるいわばバアル神の「妖怪化(悪魔化とも言うべき)」が行われた。
話をパネイオンに戻そう。
この妖怪の住む山を、ヘレニズムの時代は「パネイオン」と呼んだ。牧羊神パーンを祀る神殿である。
ところでこのパーン神は性豪であった。羊は多産のシンボルであり、古今を問わず牧羊神は性に挑戦的な(配慮した表現)ものが多い。
角のある姿で羊爪を持った姿であるインキュバスや悪魔的イメージの象徴たるサタンのイメージなどは、このパーン神から来たものであるとされているらしい。
前の話に戻れば、零落したバアル神のよく知られる姿は蝿の王であるが、同一視されるモレク神などは角の生えた姿であり、バアル神とともにユダヤ的思想の立場からは淫祠邪教の神とされている。
バアル神が邪教呼ばわりされた理由としては、人身御供を行っていたという理由があるにはあるのだが、敵方のヤハウェ側の嫉妬深く非常に攻撃的な性格を考えるにどうも牽強付会の感が強い。
普遍的な邪教とはなんだろう?
宗教とは浮世の苦しみを少しでも和らげるための拠り所としての役割があり、その道から外れたものを邪教と呼ぶのは判る。
しかし多くの場合には、人と人が、宗教と宗教が衝突する場合に片方が弾圧のために一方的に邪教が認定される。
普遍的な邪教などというものはなく、片方の側から見て容認できなかった場合に邪教として認め、滅ぼし、あるいは零落させるという目的のための過程、大義名分としての邪教という一元的な見方があるだけではないかと思う。
宗教は、それらを信じる人達の幸福を目的として作られているシステムのはずだからだ。
話は変わるが、パーン神は大変人気な神だった。ギリシア中にパネイオンはあったとされているし、羊を常食するギリシア人にとって生活に密着した神であった。多神教は神が分業制になり、それがより単純な欲求に繋がる神であったためにパーン神というのは神の効能……すなわち幸福の実感が得られやすい神だったのではないかと僕は考えている。
すなわち人気の神や息の長い(零落しなかった)神というのは、より効能の実感されやすい神であろう。宗教は人によって作られたものであるが故に、好き勝手に作り出した幻影としての神に期待する効能が得られなければ、容易く零落するのである。いわば神は人間の幸福のための奴隷である。
パーン神について言えば、その源をバアル神に拠るにせよメソポタミアのタンムーズにするにせよ、ウガリットに遡るにせよ、その信仰は遥か古代から今にまで続く。
ネオ・ペイガニズムと呼ばれる活動は、マジョリティな宗教に対しての異教復興運動とも言われているが、その一派にパーン信仰がある。そうした人達の信仰の中心地や拠り所となっている場所もまた、「パネイオン」と言っていいだろう。
人類史のなかで、神というのは無数にいた。しかし連綿と続く人間と神の歴史のうち、今昔を問わず「パネイオン」はどこかにあるのである。
そう考えると、僕は「パネイオン」について「ぱねえな」と思うのである。
おわり
パッド
かぜはくは困っています。
いいゲームパッドがないからです。
元々僕はPSのコントローラを変換ケーブルで繋いで使っていて、それがへたってしまったので(十年前の話)次善策としてPS2のコントローラを使っていたのだがこれもまたへたってしまった(五年くらい前の話)。それでもだましだまし使っていたのだがいよいよもって全てのキーが押ささったまま(これは北海道で使われる言葉だが、「押してある状態」を説明するのに非常に便利でよい)帰ってこなくなったりチャタリングを起こしまくっていたのでいい加減諦めてじろーの嫁入り道具のゲームパッドを使っている。
だがしかし、これもまたへたってきてしまったのだ!!!
しかし買うにしてもいいデザインのパッドはなく、ほとほと困り果てている。
かくなる上はキラーさんちでやったみたいに小さいキーボードをゲームパッドにするというのがいいのかもしれないと思いつつある。
トランジ
先日図書館からある本を借りた。
これなんだけど、この中に「トランジ」という凄く好みの箇所があったので備忘録的に記しておく。
あと、僕が考えている死に対する恋文を書いておこうと思う。
僕がどれだけメメントモリしているか、死は知らないだろうね?
今更言うまでもないんだけど、僕は生死に非常な関心があって、死を纏いながらも生前の状態をある程度保った「死体」という状態には特に興味をそそられている。
それは何故か?と考えると、生を考えた時、一般的な考え方では生存していること、生きて実態としての体があり、命を存続させていることを生と言うと思う。
生は有限であって、期間には限界がある。「あいつは俺たちの心の中で生き続けているぜ!」みたいなのはあるのだが、実際には死んでいるし、俺たちの心の中で生きていると言う個人が死ねば、やはり「俺たち」丸ごと死ぬ。歴史上の高名な人物は歴史書に名を残すが、どんな人物でどのような思想を持っていたということが周知されていても、やはりその人はここにはおらず、死んでいる。
この世から居なくなってしまえば、死んでいるのだ。
有限な生に対して、死は無限に続く。
古生代の生き物が、シュメルの古代人が、ギリシャの英雄が、ローマの皇帝が、ケルトの戦士が、平安の殿上人が、戦国の侍が、遥か昔から死んだままだ。
生ある状態から生を失くし、体を失って墓に入るか、あるいは土になっても、死という状態はこれから永遠に続く。
百年経ったから死から新しいステージに行くということはない。
そうなるとこの世界においては、生とは一過性の状態で、死んでいる状態の方が長いということになる。
各宗教の思想はあるのだが、復活を待って死の次のステージに行く方もおられたり、成仏して次のステージに行く方がおられたり、輪廻転生してわんちゃんねこちゃんハダカデバネズミちゃんになる方もおられるのだが、それは宗教の話であって、実際は死というのは無限に続く。
有限なる生と、無限なる死の境界の状態、それが「死体」だと僕は考えている。
死体はいつかなくなる。腐敗して、骨だけになってリン酸カルシウムは酸性土壌の中でゆっくりと土に還る。
そう考えると、「死体」とは実にマージナルだ。状態としては生は失われているのに、体はある。この世だとかあの世だなんて言葉を使うと全ての宗教に対して公平性が保たれないからあまり使いたくはないのだが、しかし便利で好きな言葉でもあるので使うが、生はあの世にあり、死の状態にある体はこの世にある。これではそれぞれの居場所があべこべではないか。おもしろい。非常におもしろい。民俗学的に言うとケガレた状態にある。
もっと言うと、その境界性のある「死体」という状態が、その境界性を失って無限なる死にどんどんと近づいていく時間など、もうたまらない。
日本には「九相図」というものがあって、人が死んでから死体が変化していく様を九段階に分けて描写した仏教絵画なんだけど、我が国流のメメントモリなんだよね。
しかして仏教色がそこにはあって、人間の無常を悟り、修行僧の煩悩を払う目的があるとされている。
多くの場合は美女が野晒でだんだんと腐り果てていく様が描かれているわけだが、細かくその場面を見ていくと、
- 脹相(ちょうそう) - 死体が腐敗によるガスの発生で内部から膨張する。
- 壊相(えそう) - 死体の腐乱が進み皮膚が破れ壊れはじめる。
- 血塗相(けちずそう) - 死体の腐敗による損壊がさらに進み、溶解した脂肪・血液・体液が体外に滲みだす。
- 膿爛相(のうらんそう) - 死体自体が腐敗により溶解する。
- 青瘀相(しょうおそう) - 死体が青黒くなる。
- 噉相(たんそう) - 死体に虫がわき、鳥獣に食い荒らされる。
- 散相(さんそう) - 以上の結果、死体の部位が散乱する。
- 骨相(こつそう) - 血肉や皮脂がなくなり骨だけになる。
- 焼相(しょうそう) - 骨が焼かれ灰だけになる。
このうちの腐敗ガスが溜まって死体が空気入れすぎの風船人形みたいになっているところや、噉相の虫やら蛇やらに喰い荒らされるところなど、特によい。
これこそ生の失われたあとの、生と死の境界性の喪失の表像、表現としてまことに美しいと僕は思う。
で、冒頭の本の話に戻るんだけど、メメントモリという思想があるわけでこういった表現はその東西を問わない。
僕は不勉強で、この本を読んで初めて知ったのだが、西洋には「トランジ(あるいはトランシ)」というのがある。「腐乱死骸像」などと呼ばれたりもする。
このトランジというのは過ぎ行くものみたいな意味の単語で、死体のことも指したりするらしい。
中世ごろ、黒死病が流行ったりしたような時代に流行(というほどでもないが、西洋各地でまあ見られた)したよう。
ルネサンス期には徐々に衰退した模様。
非常におもしろいのは、このトランジも九相図と同じように僧侶が世と人間の無常を悟って象るもので、実に実に興味深いことには、この腐乱死骸像もまた、九相図の美女が鳥獣や蛇蝎どもに貪られるように、その身を蛆や蟇蛙などに食われている!
九相図は大学時代、毎日の様に見ていたし、国書刊行会の出してるでかい本も買ったのだが、いつかこちらの実物のトランジも見てみたい。
そうでなくても、図録のようなものはほしい。
エターなるかぜはくの羨望
近場に陶芸の美術館があるからこの前行ったんだけど、僕にとって陶芸というものはそこまで縁のあるものではなく、展示物に関して、「破れやすい陶磁が、平安期や鎌倉期のものが現存しているのはすごいなあ」とか、「手作業でこのような細かいものを作り上げて、焼き上げた際に破損しないのもすごいなあ」という感想が大部分であった。
当時の人々の暮らしが垣間見れたり、想像できるというのはあるのだが、門外漢に過ぎると凄いもののその凄さというのが理解できないというのはあると思う。
何が言いたいかというと、人が生きているうちに、何かに対して驚嘆するとき、僕はその対象に関して少なくともその凄さを認識出来る程度に知識があるというのは教養であると思うし、それがあるだけで――その人は達人の妙技の一端を認識できるということは――実力であり、素質であると思うのだ。
だから僕はこれからも人生の様々なタイミングで、出来るだけ多くの「凄い!」と思える機会というのを増やして行きたいと思う。何がそのための引き金になるかは判らないが、その切っ掛けさえなければ、得られるはずだった知識や技術について学ぶ機会さえ得られないと考えているからだ。
さて今回は、僕がまだ紅顔の美少年であったころ、ゲームをツクったりしていた時に「あ、これやべえな」と感じたゲームについて書いておこうと思う。
「月夜に響くノクターン」というゲームがあって、RPGツクール2000で作られたゲームなんだけど、いわゆる黒歴史ノートを量産していた時分の時、感銘を受けたものだ。
ダークファンタジー的なストーリーはもちろん、僕はこのゲームにある種の執念とも言えるものを感じ取った。
雑に何が凄いかを一言で言うと、作り込みが非常に細かいのだ。
キャラクターが画面を移動するたび、その足の挙動にあわせて鳴る足音。マップチップによって、草原なら草を踏む音、洞窟なら革靴が土を踏みしめ、石を叩く硬い音。水たまりなら水音。扉を閉める時でさえ、そのキャラクターは扉を閉める時に後ろ手に閉めるのか、それとも向き直って正対して閉めるのか。キャラクターの歩き方や荷物の持ち方、表情さえ伝わるかのようだった。
システムに関しても独自の要素が非常に多く、クオリティも高かった。しかし当時の僕には真似することが精一杯で、同じものは作れても、キャラクターの息吹を感じさせるような作り込みまでは作り込むことは出来なかった。
後にこのゲームがリメイクされ、ついでにそのリメイクされた奴もめちゃくちゃやり込んだのだが、リメイクされたゲームからも同じような、執念すら感じられる作り込みを感じ取った時に、僕はその事に感動した。
そのことをふと思い出して、またプレイしてみることにした。
プレイ日記を書くかどうかはまた決める。