かぜはく電脳曼荼羅

玄秘学、食文化、ゲーム、生と死に非常な関心があります。

かぜはくの虚無に立ち向かうための方法

つうか、あれだ。僕が思うに最近僕が滅入ってんのは、毎週のコンクラーベがなくなったというのもあるんだろうが、それ以上に、コンクラーベで食ってたような高まるメシを食っていないというのがある。

外でいい酒飲んで美味いメシキメると元気でるもんね。

 

というのも、僕一人だと

 

「晩御飯そんな食わんでもいいかなー夜たくさん食べると太るしい♡」

とか

「そもそも夕食を摂ることというのは欲望を満たすための行為でしかないのです。本来ならばそこまでのエネルギー量は必要ありません(眼鏡クイッ)」

とか

ネトゲしなきゃ。カップ麺でいいや」

とか、そういうことを言ってるわけ。

 

貧弱貧弱ゥ!

なんつうか、最盛期の僕が見たらぶん殴ってるよね?

 

食いたいもんを食いたいだけ食えばいいと思うんだよね。必要か必要じゃないかとかそういうことではなく、食いたいもんを食うことによって俺様は高まり、そしてその分筋トレをすることによってテストステロン氏がいい感じに出てきて最強の俺様になるわけですよ。

 

つうわけで俺様、今日は腕が上がらなくなるまで筋トレするからね。

仕事中も胸筋大分いじめたし、帰宅してからハンマートレなどもした。

そして今から限界までダンベルフライ・ダンベルカールするからね。

 

あの野獣の如く野性的で、暴君のように傍若無人なかぜはくを取り戻さねばならんよね?

 

休日

気がついたら明け方までサガフロンティアしていた。
ライザとかいうイケてるチャンネーを仲間にしてシュウザーとメタルブラックをぶち殺すなどした。
そう、レッド編です。

ライザかわいくない?
戦闘終了後に髪の毛をバサってするのがよい。

昼飯食ったらネギが悪くなっていた!!!
消費期限が二月中旬やないか!
あたらしいカットネギを開けたらそれも三月七日が消費期限で、おお、もう……。

さて、今晩は何を食おうかなー

闇夜に影を探すようなもの

サラリーマンがあんまりクソなので島耕作をちょっと読んでみたら、やっぱりサラリーマンはクソということが判った。

島耕作の亀渕くんというの、よくコラされてたりするのだが、僕は彼にすごく共感している。
日本の労働における常識、そういうものを僕はクソだと思っているし、悪習だと思っている。

(亀渕くんをググるとコラばっかり出る)

少なくとも島耕作の時代の「よきサラリーマン」像については、これっぽっちも理解できない。

しかし作中でもその「よきサラリーマン」像に疑問を投げかけている。
つまり従来の価値観からの脱却モデルとして島耕作があって、しかし島は「よきサラリーマン」を含む社会の中でこそ生きていけるスタイルであって、亀渕くんはそれよりも更に個人主義の形を取っているといえる。

しかし悲しいかな、良しきにつけ悪しきにつけ、多数か強者になる世界では、作中でも言う通り郷に入れば郷に従うことが求められ、亀渕くんのようなのは淘汰される。

で、僕の勤める会社も超昔気質の昭和くせえ企業なので、僕のような超人は浮きまくって今にも飛ばん勢いで。
社内いじめもひどい。

しかしその中で、多数に対抗する手段を考えた時、それはやはり多数の流儀になる。僕自身の流儀は、彼らには全く理解ができない。
多数と同じ土俵で、実力によって多数を打ち砕く以外に、今のところ僕は方法を見いだせていない。

そんなわけで、ちょっとだけ真面目にサラリーマンやっている。
もっともそれ自体は、僕の生き方や人生においては、闇夜に影を探すようなものでしかないのだが、それでも、自分が自分として生きるために、僕にあだなす多数を倒さねばならんのだ。

虚無からの解脱

古来、様々な宗教が、神々の坐しし清浄なる楽園の存在を説いてきた。

そこには精神的潤いであるとか、快楽に満ちているだとか好き勝手に祭祀者どもは言うのだが、月に叢雲、花に風。天人にも五衰あり。不苦不楽の世界とは、まさしく虚無に他ならない。

自らのあるこの浮世を見よ!今我が隣には、美女があり、美酒があり、友がある。

これに勝れる極楽がどこにあろう?よほどこの現世のほうが、虚無そのものであるあの世にある楽園より、楽園じみている。

 

続きを読む

うまる(・はいやーむ)ちゃん

僕がよく言う、「人は一人で生きていけるのだが、一人で生きていくことは出来ない」というのは、言い返せば「一人で生きていけるほどの力をもった人間を、一人で生きさせるようなことは社会が許さない」という意味なのだが、まことにこの人間の愚かしさについては、社会人となった今前よりもより一層深く感じるようになった。

人間というのは、天上から垂らされた蜘蛛の糸を、それに縋ることの許された選ばれたものを、そうでない凡百と同じものにまで貶めるために、天のつかわした銀糸を引きちぎるようなことを平気でする。

ただ一つ思うのは、一人で生きていくことが出来るほどの者であれば、他の者をも救うことができるはずだ。
それをするしないは別として、力を持っているものが、その力を自分のために使うか、人のた目に使うかという差が、今の僕とくくさまの、この大いなる差であるに違いない。

ヒューッ!

僕の本質は変容だ。

常に自分自身のあり方を見つめ、より良い自分になるよう考えを巡らせて、答えを見つける。そして行動に移す。

大学までは「自分が惚れる自分」を常に目指してやって来たことを思い出した。
かっこいいと思える自分を探して、そういった人間になれるように。

何をどう間違えたかはおいといて、今現在かぜはくは腐ってて、その腐りループからなかなか抜け出せていない。
ミザントロープは悪化するばかりで、厭世家として成長していくうちに人間が、この世が、生が嫌になりつつある。
それはまあどうにもならないとしても、厭世家には厭世家なりの、優れた輝かしい生き方がある。
今の僕は決してそうではなく、ただそれのもつ、魔力の渦中、沼めいた柩のなかに囚われているだけだ。その柩の居心地があんまりよいから、それから抜け出すことを拒んでいる。なんたる惰弱か!

早く抜け出さぬと、その柩は僕の、これまで積み上げてきたものたちをさえ腐らせるぞ。


今一度、かっこいい自分とは何なのかを考える必要がある。
自分自身が憧れることのできる様な。


かっこいい男?

そうだなあ。コブラでも読むか。

夜叉ヶ池/天守物語

よみました。

 
戯曲読みやすいね。幽玄な情景描写は鏡花の持ち味の一つだと思うけど、これはこれでよい。
 
構造的な話をすれば、二作とも俗世の人間と、聖なる妖怪変化の対比がテーマになっているのだが、鏡花自身の人間の味方に関わるようで興味深い。
 
聖なるものはすなわち、祟りを為すものとしての二面性を持っている。夜叉ヶ池では蛇蠍のごとく憎みつつも夫婦愛に嫉妬もする白雪が、しかして結局自らの為に尾の無い猿を水底に沈めてしまい、天守物語では富姫が人間に恋し、自分のものにする為に手を尽くすが、蒙昧な人間によってその体を害される。
 
どちらの作品でも、人間は徒党を組んで神秘的存在に(自ら仕立て上げておいて)害を為す愚かな存在として描かれている。
 
 
戯曲にデウス・エクス・マキナなるものがあるというのは高校時代に知ったのだが、シェイクスピアくらいしか読んだことなかったので、判りやすいデウス・エクス・マキナが登場する戯曲に触れる機会となった。
 
でもこれって批評性が高まるよね。
いいような悪いような、都合がよくなってしまうのはあまりよいとは思えんのだが、戯曲としての様式美なのかも。