かぜはく電脳曼荼羅

玄秘学、食文化、ゲーム、生と死に非常な関心があります。

ふわふわのまほー

ってよくジローが言う。

 健康診断行ったらなんと身長が5ミリも伸びていた!!!!!!!!!!!!!!

5ミリとか四捨五入したら1メートルでしょ……。

 

で、健康診断が終わるや否や俺様は滋賀県まで車をぶっ飛ばすなどした。

途中でイオンモール五条に寄り道したのだが、俺様お気に入りの傾いた服をいっぱい取り扱ってる「流儀圧搾」が滅んでいた!!!!

許されざるね?

 

そういうわけでじろーを迎え、イオンモール草津へと突撃したのだった。

 

流儀圧搾に寄ったけど特になんもなかったので、うろうろーっとした。

俺様ビレバンに居る奴のことは正直馬鹿にしてるけどビレバンはすきだよ。

ビレバンでくそかわいい抱き枕買ったりした。

レジでサブカル女にクスっとされたけどてめえ俺様が抱き枕買って何が悪いんじゃ?俺様を笑うなど万死に値するぞ?その血で償おうか?罪を?

 

家に持って帰って気づいたのだが、俺様の部屋般若面とか鬼瓦とか幽霊画とかと、ざっくぅのぬいぐるみとかが混在しててちょっとカオスな空間になってきた。

 

でも混沌というのは俺様大好きな状態なので、このままにしておこうと思う。

 

本来秩序と混沌というものは、それらを明確に分けるものがあって生まれる。秩序なるものは人に求められて混沌より生み出された。混沌の成れの果てとも言えよう。混沌と秩序を分けたもの、それが境界と呼ばれるもので、俺様が大好きなのはこの境界と、それに密接に関係する混沌なのだ。秩序などはクソくらえ。弱者のためにある頽廃的な、惰弱な牢獄に過ぎん。その気になれば我ら混沌の住人は、秩序とかいう吹けば飛ぶようなわらの家に住む家畜どもをすぐに食い殺すことが出来るのだ。

 

秩序なるものの住人は、混沌をなぜだか忌み嫌っている。

混沌を秩序の中に持ち込まれることをいつも拒んで、それらを禁止/拒否するのだが、それらの分水嶺になるのが境界と呼ばれるものであった。

そもそも自らの生まれ故郷である混沌を禁止するということ自体蒙昧にして愚かな行為なのだが、それは人間という生命それ自体が凡愚な性質を持っているから仕方がない。問題はその混沌を禁止することよりも、直視することを避けようとすることにある。

 

この禁止することは、あらゆる国のあらゆる民族がやっているわけだが、「禁止すること」それ自体には何の意味もない。

禁止するというのは、例えれば空っぽの箱にすぎない。人間が求めて、その箱に何かを入れた時、社会的にそれが意味を持つのだ。

 その属する社会システムの存在の前提条件を導入する以外、いかなる内在的特質も持たないが、その現存――それ自体意味作用を持たないものとしての――によって、全体としての社会システムの存在を可能にする。

 ということをレヴィ・ストロースとかいうおっさんが言ってるのだが、社会というものの存続のために、混沌なるものを禁じるという手法が専ら行われている。

それは禁止することの意味というものを正しく理解されているからこそ、混沌を禁止することに意味が生まれるのであって、その意味を理解できるものがいなくなったとき、あるいはその禁止に意味を見出せなくなった時には、混沌の禁止それ自体にまったく意味がなくなるということだ。

であるからこそ、秩序の住人が身勝手に混沌を禁じることは、混沌の住人にとってはその意味がない。秩序が必要ないものにとっては、混沌の禁止もまた必要がない。

そういうわけで僕の部屋は混沌のさなかにあるのである。

 

要約すると俺様はつよい。そういうことだ。