かぜはく電脳曼荼羅

玄秘学、食文化、ゲーム、生と死に非常な関心があります。

『 恋は雨上がりのように』を見ました

Amazonプライムが今年も知らないうちに更新されていたのでお勉強ついでになんかしら見ることとした。

 


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お勉強の様子です。

 

僕もじろーもかつて『 恋は雨上がりのように』を読んでいたので、いざ見てみむとするなり。

 

この上なく雑な紹介をするなら、十七歳の女子高生(黒髪ロングでツリ目のかぜはく的にポイントが高い)がバイト先の店長(四十五歳バツイチ)に恋しちゃうみたいな話だ!

 

店長の学生時代における同期が今は作家をしてるんだけど、再開したシーンの「俺たちは大人じゃない。同級生だろ」っていうのに痺れましたね。

 

かつて僕が紅顔の美少年であったころは大人に非常な憧れをもっていた。たとい二十歳になったとて直ちに大人になれるものではなく、大人として恥じることの無い条件を満たしてこそ真に大人として認められ、尊敬されるべきだと考えていた。

 

実際はどうか。

確かに大人というのは責任が伴い、社会から様々なことを求められる立場にある。

しかし自分が憧れたような、夢見たような大人が一体何人いるというのだ。

諸手で足りるほどしかいないではないか。

少なくとも社会に求められる大人と、僕の考える大人とには乖離があるし、そのどちらが大人として世間に捕えられているかは、世に僕の考える大人の数が少ないことからも明らかなことであろう。

 

作中の二人にとって大人という言葉は、二人で会う時に全くなんの意味も持たないものだ。

方や地方都市に山ほどあるファミレスの店長、かたや今を時めく売れっ子作家。

企業人としての立ち居振る舞いや、接客業としてお客様のみならず、雇用する人間をも監督する立場と責任を持つ店長。

綺羅星のごとく文壇に現れ、その後も老若男女を問わず愛される純文学を――別の言い方をすれば大衆に迎合した、毒気のないクソ――手掛ける作家。

 

共に文学を志す徒であった二人にとって、十年の時を経て再開した時大人というカテゴライズは無用のものであった。意味を成さないものであった。二人のどちらもが求めているものではなかった。

 

このアニメを隣で見ていたじろーが、

「横浜って雨季あったっけ?」

と言うくらい作中は常に雨に祟られている。時折晴れたりはするものの、物語が進むのはいつも雨と共に進む。いつか来る「雨上がり」に向かって進む。

主人公と中年店長はほぼ時を同じくして停滞していた雨の中から、雨上がりに向かって進み始める。その方向性は共に歩むのではなく、各々の歩みを阻む暗雲を払うために。

 

恋は雨上がりのように、に続く言葉として、僕は「終わった」が当てはまるのではないかと思った。

主人公が「自分を進ませてくれたあの人を、雨上がりの空を見る度思い出す」と言うように、彼女がもう一度走り始めてより後に見た雨上がりの瞬間に、彼女の最後まで片思いであった恋は、自分を再び歩ませてくれた店長に対しての尊敬に変わったのではないだろうかと。

僕にそう思わせるまでに、店長の態度は素晴らしかった。十七歳をミスって夜九時に家に上げてしまい、キー入力ミスでちょっとハグしてしまったあともなんとかリカバリーをしたのでアウトではない。セウーフくらいだ。

 

思えば僕も色んな大人に導かれてきた。

僕の目標にある大人としての理想像は恐らくその体験が原型にあるのだろうと思う。

僕が大人に数える人達のことを思うたびに、自分も誰かを導くことが出来ればと思う。

 

書き加えるとすれば、店長と作家が言うような「文章は毒がなきゃクソ」「自分の毒で誰かを感動させたい」という意見には強く強く賛成する。全くその通りだ。