カレー。

「二十分くらい居てもらってもいい?お祈りに行ってくるから」

 

小さくちぎったナンをカレーに塗ったくって食べる僕達に、店主はそう言った。

 

「どうぞどうぞ。お気をつけて」

 

僕達はそう答えて、再び料理を楽しむ方向に戻った。

店内には僕達の他にはもう一組しか客はおらず、今日の予定について話し合っているのが聞こえる。

店内にはかすかにと言うには大きい音量で中東の香りがするBGMが流れている。

 

神戸という街は非常に面白い街だと僕は考えている。

 

本質的な部分ではやはり日本的文化が確かにある。

それはよく言われる標高差の意識であったりだとか、旧居留地のど真ん中やら異人館のあたりやらオフィス街やらに生田裔神八社が点在していることだったりすることや、街並みそのものの雑多さなど……多くの要因からそう感じる。

 

「異国情緒の街」と言われたりするのだが、ではその異国情緒とやらはどこからいずるものなのか?

北野の異人館集合軍の中にも日本家屋はあるし、今にも崩れそうな昭和の据えた匂いがぷんぷんする建物なんかもかなりある。北野の入口にある異人館案内所などはその最たるもので、単純に景観を持って異国情緒があるとするのは僕にとっては納得し難い部分がある(しかしカフェドパリの佇まいや高級ブランド街を見てパリを想起するのも確かだ)。

 

宗教と思想の坩堝としての神戸に、僕は面白みを感じている。

 

学生時代にじろーが僕に「神戸行くんだけどなんか見るもんない?」と尋ねてきた時、僕は「生田神社(神道)行ってモダン寺(浄土真宗)行ってモスク(イスラム)行って関帝廟(道教)いってアジア宗教ツアーなんてどう?」と提案したら、「君に尋ねた僕が馬鹿だったよ」と返されたことがあった。

 

もっと言えば、シナゴーグ(ユダヤ)もあるしグル(シク教)もあるし、ジャイナ教寺院まである。もちろん、教会(カトリックプロテスタント)もね。新興宗教まで数えるのはアホくせえから省く。

 

これは何度も説明していることだが、僕は宗教の基本理念であり目的である死への恐怖の克服と幸福の追求というものに興味があるから宗教に興味があるのであって、特定の宗教に肩入れすることもなければ、自分自身を救うのは自分でしか有り得ないと考えている。赤の他人に救われてたまるかと考えている。

どこの宗教団体にも属さない。

 ありとあらゆる(宗教に限らない)幸福を追求する手段をより客観的に見つめるための、僕の美学だ。

 

日本人の宗教観に関して言えば、よく言えば包容力があり、悪く言えば無関心なのだが、それ故に宗教由来の争いが少ないとも言える。

だからこれだけ多種多様な宗教の宗教施設があちこちに(それこそカレーに使われるスパイスの数みたいに)乱立していても、戦争も起こらなければ殺し合いも起こらない。

他宗教への寛容さにおいて、神戸という街はその他の街より明らかに異質だ。

僕が知る限りは、ジャイナ教寺院は日本でここだけしかない。

 

そういう意味では、神戸というのは、カレーに似ている。

中東飯がインドでスパイスと融合してカレーの原型が出来て、インドのカレー、イギリスのカレー、フランスのカレー、アメリカのカレー、日本のカレー、東南アジアのカレー、南アのカレー、カレーというのは少しずつ形の違う、世界を共通する料理なのだが、全て日本人はひっくるめてカレーと呼び、食べている。

形の違う、本質の同じものが一つのものに(多少無理矢理に)ひっくるめられて、それぞれをそれぞれの人達が楽しんでいる。

 

店主がモスクから帰ってくる二十分間、僕はそういうことを考えていた。