かぜはく電脳曼荼羅

玄秘学、食文化、ゲーム、生と死に非常な関心があります。

バブイル

材料買ってきました。

紆余曲折あって猫が来ることになっている。
それについては色んなわだかまりとか、我が家の家族ランクの低さとか、蒙昧な人間の罪深さとか様々な問題を内包した、解決策であり行き着いた先の一つなのだが。

家族というものに、僕は結構早い段階から失望していた記憶がある。
決して家族というものが、特別な結びつきのものではなく、血が繋がっているだけの個々人の寄せ集めであると考えていた(考えている)。
子供は親を選べない、というのはよく言われる話だが、それは親の立場でも同じ事だ。
手塩に掛けて育てた息子が、僕のように道徳だとか社会性だとか協調性だとか言ったものを丸っきり培わずに育ってしまったり、他人の気持ちを推し量る能力に欠けていたり、大いなる人間的欠陥を抱えていたらどうか。
家族の構成がどのような面子になるかは、人間の力の及ぶ範疇にない。

事によっては、某かの要因によって家族というものが滅ぶまで、親子で憎みながら暮らすということもあるかもしれぬ。

捨てたければ捨ててしまえばいい。親子だって決して切れない関係ではないし、問題を抱えた家族にとって現実的で苦しみの少ない解決策であろうと思う。

しかしふと思うのは、うちの家族には滅びかけの家族という共同体を、力を尽くしてとどめようとしている人間のあることで、賢愚はともかくそれは一人の人間の人生のうち、大切なものであるらしい。

曰く、家族というものは、諦観から成り立っている。相手に大して様々なことを諦めて、相手のために色んなことを飲み込んで、相手を慮って努力して存続させていくものであると。

僕は家族というものをはっきりいって軽んじているのだが、不思議に家族というものに対してはある種の期待を持っているとも言える。
僕の日々考えるような悟り、生き方、人間性などというものを、期待を込めて理解されようとしている。言い方を変えれば、それは僕個人の思想と我侭、自己主張の押し付けだ。
どれほどに高尚な思想であろうと、理解されなければ勝手な主義主張にすぎない。
僕は家族というものに対して、諦めているようで諦めていなかったのだ。皮肉なことに、それが更に家族間の不和を助長する。

家族への諦観。
それは半ば強制的に寄せ集められて、共同生活を余儀なくされたものたちの知恵であると思う。

特に我が家においては、考え方を改める必要がある。自らを不幸せにするような家族を、幸せとまでは行かぬでも、僕自身の幸せを奪い、阻害することだけはない家族へと作り替えていかねばならぬ。
それは諦観という名の、酷く消極的で期待しない共同作業がもたらす、ある種の信頼によって作られる。

まるでバブイルのごときものだ。