かぜはく電脳曼荼羅

玄秘学、食文化、ゲーム、生と死に非常な関心があります。

苦しみの軛から如何にして開放されるか。

僕は大真面目に人類の救済を夢見ている。

ただ前例を見て理解できるのは、恒久的な人類の救済というのは不可能だということだ。

この世に人のある限り、苦しみがあり続ける。一人の偉人がいっとき、多くの人を救ったとしても、また別の苦しみに襲われるのは必定だ。それは様々な方法で人類を救済しようとした者たちを見れば判る。救世主が現れて、更に恵まれたことにその後継者が現れてもなお、歴史に残る偉人たちですら全人類の救済は出来なかった。

 

最近、浄土思想について考えた。

僕は人類救済の手段として、浄土を作ることを目的としている。

 

浄土というのはどうも遠いところにあるらしい。

苦しみの無い尊い世界であるということであるが、多くの宗教者がその浄土を追い求めた。死の先に浄土を見出した者もいた。

 

しかし人間が本質的に苦しみを内包する生き物であるとするならば、浄土は人間が足を踏み入れた瞬間浄土でなくなってしまう。正確には、苦しみのない世界ではなく、苦しみの可能性を持った人間が居る浄土になってしまう。

 

それって浮世と何が違うの?って思った。

自分勝手に生きるなら、僕は一人で生きる限り限りなく自分自身のために生きられる。僕は自分ひとりだけの浄土を作ることが出来る。

 

しかしながら、それを浄土と呼ぶことに僕は抵抗がある。自分の独りよがりな世界に僕以外の人が入ってきたとしても、その人が救済されるわけではないからだ。

だが、人間と関わる以上、僕の作る浄土の完全性は必ず損なわれる。

僕は僕の周りに、浄土を作りたい。全世界の人類を救えなくていい。

僕の周りだけでもいい。

苦しみから開放したい。

 

ところで最近、僕の悟りが敗北する出来事があった。

知恵は人間の本能に敗北し、僕の今まで悟ってきたものが誰一人救えない、自分だけを救う論理であることに気がついた。

僕が人類を救済するためには、まず自分自身の救済を行った上で、僕以外の人間を救済する土壌を組み立て、苦しみから開放されるためのシステムを構築した上で、人間存在にのしかかる苦しみを理解して解消する必要がある。

人間が本能に抗うことが出来ずに苦しみに苛まれるのであれば、本能に抗うための、苦しみから遠ざかる術を広く知らしめていかねばならぬ。

 

そうしてみるとやはり仏陀の存在はすごいと思うようになった。

仏陀個人は苦しみから解脱した存在だ。

仏陀のやり方やスタンスをすべて正しいというつもりはないし、仏教なるものを全肯定するわけではないが、仏陀個人についてはリスペクトしている。自分の知恵で苦しみから開放され、ブレイクスルー思考で世界を再定義して三悪を消し去り、自分以外の者も救おうとした。

 

でもそれって僕とあんま大差ないですよね??と思ってたのだが、仏陀はそれ以上のことをしようとした。

仏陀は自分の周りのみんなも救おうとした。そのために、自分の悟りを広めるという手法をとったのだ。そしてそれが他の宗教と比べて割合うまくいった。

なんでこんなことをしたかということについて、今の僕は実例を踏まえて納得をした。

 

余談だが仏教にしてもキリスト教にしてもやったことはだいたい一緒で、新しい解釈で世界を再定義して妄信的な原始宗教からの脱却を目指すことこそが主題であった。悟った内容についてPDCAを回し続けた点に於いてはイエスが優れていたと言えようが、この二人の違いは、伝道師の質の違いにある。

インドは哲学的土壌が醸成されており、宗教哲学が発展していたために室の高い哲学者が多数いた。仏陀以外にも六師外道などの優れた宗教哲学者がたくさんいたし、仏陀の悟りは十大弟子などの努力もあって正しく伝えられ、「原始仏教」という形で、今日まで仏教の礎としての姿を保ち続けている。逆に言えばイエスは代表的伝道師がアレ(パウロ)だったために当時の社会批判と、互助的性格を持つ共同体の推進が、何故かあんなこと(イエス=キリスト万歳)になってしまったため、仏教ほど実りのある宗教哲学がなされなかったと僕は考えている。

ユダヤ教エス派の現代まで続く宗教哲学は本当に、マジで不毛の一言です。

 

救済を主題に置く宗教の基本的な考え方として、自分の方法で他人を救うことが出来るのであれば、自分以外の人間が他人を救うことが出来れば救済される人間の数が増える。一人で人類は救済出来ないが、救済することが出来る人間が増えれば、救われる人間の総数も増えていくというところに非常に大きな意味がある。それ自体は本当に素晴らしいことだと思う。システムとして非常に良く出来ている。

このシステムは、現代に於いて使いにくい宗教という上モノではなく、もっと実利的で現実に即した救済の方法に適用すべきだと僕は考えた。

 

僕が誰かを救うことが出来る場を作れたのなら、他の誰かにもそういう場所が作れる。全人類が各々自分とその周りを救済する場所、いわば小さな浄土を作ってそれを維持出来れば、多くの人間が救われるのではないか。

人を救うには現段階ではこのシステムに可能性があるのではないかと考えている。

ただ、しかしその浄土の維持が出来ないから皆不幸せを感じているのだ。

実際に今、僕は人ひとり救おうとするだけで自分まで心神喪失しようとしている。

これではとても浄土だなどとは言えない。

 

しかしながら方法論は見えたように思える。救済するための方法をより洗練させることにより、僕の思う救済により近づくはずだ。