かぜはく電脳曼荼羅

玄秘学、食文化、ゲーム、生と死に非常な関心があります。

『こゝろ』を読みました。

さる事情があって、夏目漱石の『こゝろ』を再度通読した。

 

やはり少年時代の穢れを知らない時分の僕と、今の僕では全く違う受け取り方をするね。

 

「わたし」が「先生」に持つ気持ちは、僕が我が人生の師にして君主だと慕う人に向ける気持ちに似ていると思う。

それでいて「先生」の厭世家で人間嫌いな所や、行動に至るまでに思考の迷宮に迷い込んでしまうところなどは、僕にもある心理だと捉えている。

 

以前このブログでは『坊ちゃん』について書いた。

あちらは軽妙洒脱にして小気味の良い闊達な文章であって、坊ちゃんの快刀乱麻を断つような活躍を描いた大衆小説であると言えよう。

 

果たしてこちらの「こゝろ」はどうか。

僕はこの小説について、厭世と浮世への諦観に満ちた陰鬱な文章だと感じた。

僕はですね、こういうのが好きなんですよ!!!

 

思わず膝を打った表現があったので幾つか備忘録的にここに書いておく。

 

 

あなたは死という事実をまだ真面目に考えた事がありませんね。

 

旅先で「先生」をストーキングし、東京まで追いかけて行って家にまで押しかけた「私」が、そのまま雑司ヶ谷霊園で由来不明の墓に参る「先生」を探して遂に追いつき、墓参りに同道しようとする場面において。

言うまでもなく、「先生」は死について常日頃から死について考えるだけではなく、自分の周りに襲いかかる死の恐怖に晒されながら生きてきた。

「私」より、「先生」は死に対して親身で距離が近いことを匂わせる。

なおかつ、「私」が死の恐怖に煽られておらず、「先生」との対比も描いている。

ミステリアスで影のある中年の男って、いいよね!

 

あなたは外の方を向いて今に手を広げなければならなくなります。今に私の宅の方へは足が向かなくなります。

 

「私」は若い学生なので、この先の無限の可能性のうち、「先生」は「私」の気持ちが自分から離れていくことを予感している。そしてそれを恐れている。

「折々お宅へ伺ってもよござんすか」と「私」は「先生」に言い、「先生」はそれを承諾した。

「私」は学校の友人たちと関わるよりも常に「先生」と関わり、「先生」の人生観から教訓を得て成長していく。

ここ、ここね、ここ、あの、エモいよね。エヘへ。

慕われることの嬉しさが大きい反面、いつか自分のもとを離れて行ってしまうのではないかという恐怖があるんですね。

それは持たざる者は決して知ることのない恐怖なんだ。

あ、あ、愛を受けるものにしか得られぬ苦しみなのだ。ウッウウッ。

 

 

私は過去の因果で、人を疑りつけている。だから実はあなたも疑っている。しかしどうもあなただけは疑りたくない。あなたは疑るにはあまりに単純すぎるようだ。私は死ぬ前にたった一人で好いから、他を信用して死にたいと思っている。あなたはそのたった一人になれますか。なってくれますか。

 

おい!こんなん!こんなんな!!!

何を見せてくれとんのじゃ!

「先生」は細君にも自分の悩みを打ち明けられない事情があって、行き場のない苦しみを理解してくれる相手を欲しがっている。

だがその望みは、「先生」の人を寄せつけない厭世的な哲学と相反するものだ。

これまで「先生」は人生の上で、裏切りや不義に翻弄され、自分さえもその恐ろしい手段の使い手となった。

だから「先生」はその恐ろしさを知っている。だから「私」から純粋な尊敬の眼差しを向けられることにさえ、疑いの目で見てしまう。

「先生」は自分を苦しめている不義の記憶から解放されたいのだ。

 

僕も過去、手酷い裏切りを受けたことがある。

あの時はマジで全員あの世に送るしかないと思った。

なぜなら、そうした恐ろしい裏切りにあった後、世界が全く違って見えるからだ。

誰も彼もが信用出来なくなって、皆が自分を貶めようとしていると感じる。

人と関わる度にそうした疑心暗鬼に襲われて、狂いそうになる。

自分の周りに人がいなくなることでしか、安心が得られないとすら感じることもある。

僕についてはその心の安息が得られぬ苦しみを和らげてくれた伴侶や友人がいたので人類を鏖殺せずに済みましたが……。

 

「先生」がなぜこの悩みを細君に打ち明けなかったのか、作中でも語られるわけだがその気持ちは非常によくわかる。

いたく愛している細君に、自分の醜い場所を見られたくないのだ。自分を愛してくれている細君に、ほんの少しでも失望されたくないのだ。

卑劣な裏切りをしてまで一緒になった伴侶に、今更自分が権謀術数を巡らせて人を陥れ、君を娶った人でなしのクズだなどと言えるだろうか。

「先生」は言えなかったのだ。

 

「先生」は「私」との触れ合いによって、凍てついた心を溶かしていった。

この「あなたはそのたった一人になれますか。なってくれますか」には、「先生」が「私」にまるで縋るようにして自分のことを理解してくれと、永遠の地獄めいた苦しみから解放してくれるひとになってほしいという思いが詰まっている。

この言葉を言えるようになるまでに、確かに「先生」は変わってきている――救われつつある――のだ。

もうこんなんホモですよ!!

 

あなたが無遠慮に私の腹の中から、或生きたものを捕まえようという決心を見せたからです。私の心臓を立ち割って、温かく流れる血潮を啜ろうとしたからです。(中略)

私は今自分で自分の心臓を破って、その血をあなたの顔に浴せかけようとしているのです。私の鼓動が停まった時、あなたの胸に新しい命が宿る事ができるなら満足です。

 

「先生」が手紙で自分の過去を「私」に打ち明けることを決意した理由を伝える段において。

ちょっとこの文章は僕には書けないですね……。

ここまで読み進めて「先生」の心に巣くう病煩を下地にして、死の誘惑を前にした「先生」の決意をここまで官能的に書いたところに、僕は最上級の敬意を示します。

この文章に出会えただけで、僕は読み返してよかったと思いました。

ツイッターとかで「心臓」、「血」、「命」を使って文章を作れば性癖が判る!とかいう香ばしいことやってる人たち、必読です。

このえっちさをお手本にしろ。えっちじゃなきゃ文学じゃねえんだ。文学で人を殺せ。

 

最後に。

 

私は突然Kの頭を抱えるように両手で少し持ち上げました。私はKの死顔が一目見たかったのです。 

 

「先生」のKに対する感情があふれていてとてもよい。

僕だって自分の信頼している友人が、自分の所為で死んだらそーする。

しかし両手で持ち上げるところにただならぬ慈しみを感じる。

そこがまたよい。

 

これは一定数いると言われている『こゝろ』ガチ勢の気持ちが判るな……。

 

こゝろ』、全ての厭世家と虚無主義者に薦めたい。

浮世の苦しみは生を憂うのに十分すぎる理由だが、直視しすぎると「先生」みたいになってしまう。

虚無主義は僕たちの人生を「クソでも仕方ない」と思わせてくれるが、傾倒しすぎると死の誘惑に抗えなくなる。

だが、行き着くところにまで行ってしまい、死を選ぶなんていうのは虚無主義の中でも下等な虚無主義であると私は考えている。

「私」が「先生」から虚無主義を学んだあと、進むべきでない道へ足を踏み入れないことを願うばかりである。